細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

彼のラジオから聞えた名前

今日はふと槇原敬之のことを思い出していた。僕が高校を出る頃大ヒットしたのだけれども、同じ街の出身ということを知って、すごく驚いてよく聴いていた。


 彼のラジオを聴いていたら淀川など僕も見た風景のことが話されていて勝手に親近感を抱いていた。今でも彼は優れた歌手であり、シンガーソングライターだと思っている。ただ、昔のようなただただ、さびしい心に寄添わせるような依存的な聴き方ではなくなった。全然立ち位置がちがうが、ひとりの人としてどんなふうに歌っているか時々気になるのだ。それは事件後もそういう聴き方だった。

 それはともかく僕が20くらいのころ初めて買った詩集は彼がいつかラジオで紹介していた立原道造なのだった。槇原敬之が好きな詩人ってことで気になって読んだけどその当時はピンと来なかった。けど、後に立原道造を読んでみて、そのときはへええと思った。思ったが好きというまでにはなっていない。しかし、銘記しておきたいのは、ある音楽家からつらなって詩を読もうと思ったことである。これもまた詩というか様々な匂いや光や音を伝える言葉への出発だろうとは思っている。そして今日パラパラ読んでみたら感慨深かった。


 槇原敬之は具体的なエピソードから、何か意味や歌へ向う願いを立ち上がらせる感じがする。けれど、立原道造の書く景色は一見ぼやけていて心象の度合いが高い。しかしある思い入れのある事柄を、リズムに託していくという作業は似ている。それは人を引き離すのではなく、ある形象、韻律を通じて、何かと何かを接近させたりするのである。歌の力は、孤独を歌っていても、無理に連帯させるのではない。結びつきを強要しない。けれど、何かに寄添ったり、不意に似た景色に誰かを立たせるのである。立原道造中原中也が亡くなった直後、哀訴にも取れる形で「よごれっちまた悲しみに」を引用しこう述べる。

これは「詩」である。しかし決して「対話」ではない。また「魂の告白」ではない。このやうな完璧な芸術品が出来上がるところで、僕ははつきりと中原中也に別離する。詩とは僕にとって、すべての「なぜ?」と「どこから?」の問ひに、僕らの「いかに?」と「どこへ?」との問ひを問ふ場所であるゆゑ。僕らの反撥と別離は、くりかへされてやまないであらう。そして僕らが接近するのは、雑踏のなかで、ただ一度二十にかさなつただれもゐない氷の景色のまへで出会ふときだけ。そして、その出会を無力にする、「あれかこれか」の日に僕らは別離する。なぜならば、深い淵をあなたの孤高な嘆きが埋めつくし、あなたの倦怠が完成するゆゑに、言葉なき歌となるゆゑに。


僕は思ったのだけど、中也に出会えなかったことというか、中也が孤独を歌うことを立原は責めているのではない。むしろなぜか中也に壁を感じる自分が悲しいのであり、詩はそこではなんなのかが問われている。さびしい。つながることができない。僕はそう昨日書いた。立原は一見、中也を責めているようだけど、中也の孤独からちがう方向を取り出しているのだと思う。自分はそのように透明な壁を破る言葉が書きたい。それを彼は「対話」という。これは討議ですらないのかもしれない。

でも「触れあい」というとあれだし。


立原は中也は何か答えを出してあきらめているふうがありそれが嫌なのではないかと思った。もちろん答えというのは必要ですらある。しかしそれは独り決めだけしていればいいというのではない。もちろんそれに相当する絶望が中也にあった。しかし、立原にとってそれは自分が何かと出会うために、つまりは孤独を知るためには逆に作用するのである。


ややこしいけど、中也の詩は世界を「答え」と「決定」で充たす。(もちろん僕自身は中也が好きで立原道造もそうだと思う。嫌いだったらこのような批判はできない)しかしその答えでは困る。立原はもっと世界の「謎」を増やすことで世界と自分の関係を更新したかったのである。更新することで、様々なことへの新たな関係性がはっきりする。


そのように思うとき、新たな地点に立つなら、僕だって一人で様々なことを決めるだけでなく自分を知り他者を感じるために、どれだけでも謎に直面しちがう角度から話してみたいと思う。それは詩だってなんだってそうだ。詩の中に生を限定できず、生の中に詩を限定できない。そんなちょうどいい関係なんてものはどちらにもない。というかどちらもそんな囲いの中にまず入るようなものではあるまい。


立原は夭折の詩人であるため多く死や別離への明らかな傾斜も感じられる。


ただしかし、そういうことと「出会」や「対話」は少しちがう位相にあるのです。「出会」や言葉を押し広げる方向に立原道造のささやかすぎる詩はあったのだと思ったりもするのです。

私たちは いま たつたひとつの眼を持つてゐる
おまへの言葉は あの絵のなかで 川のほとりで
午前の光にみたされた 微風のやうにやはらかい
 
立原道造(くりひろげられた 広い 野原に)