細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

本日大阪は終日冷たい雨。夕方から出かける。


id:Arisanさんの昨日の日記に今日でソクーロフの『チェチェン アレクサンドラの旅』のシネヌーヴォでの上映の最終日と書いてあり、駆け込みで見に行きました。

チェチェンへ アレクサンドラの旅 | 映画について説明するファンの為のサイトです。

なんとか見れてよかった。詳しい感想は今余韻に浸っているのであれですが…



旦那さんが亡くなって間もない老婦人(アレクサンドラ)がチェチェンにあるロシア軍の駐屯地に孫にあいにくる。アレクサンドラは多少気難しいもののチャーミングな女性である。

孫は将校。


装甲車に乗る場面があり、老婦人が装甲車に乗るという映像を僕ははじめて見ました。

アレクサンドラは一人「狭い」や「殺風景」とつぶやいている。孫を責めるわけではなくて、むしろこのような乗り心地の悪い車両に人が乗ることじたいになんとも言えない居心地のわるさ、暴力を感じているようだ。

それは駐屯地、その外でもそうで、将校の祖母とはいえ勝手に出歩けないし、いろいろ兵士に世話や命令を受けることにも、不自由を感じる。しかし、アレクサンドラは彼女のもつ雰囲気やはぐらかしや何かでなんとか自分にとって、楽なようにもっていこうとする。
しかしそれを覆うように疲労が兵士やアレクサンドラをつつんでいる。

この駐屯地では存在の自由こそが不在だということを感じさせる。それは外に広がりロシアの軍事的管理下にあるチェチェンの住民や年の近い老女とも、触れ合おうとしてもその核心にうまくたどり着けない。そして数日で駐屯地から帰ることになる。(孫が長い作戦で駐屯地をしばらく離れるため)


アレクサンドラは将校の祖母として一定の守りの中にいて、様々な加害、被害の中をふらふら散歩しながら、そこでやり取りされる言葉の中に、アレクサンドラの存在を通じて、不信やかすかな温かみの兆しを感じる。


微妙にしかし明らかに互いが互いを縛りあい苦しめあいながら、その中にひとりひとりの寂しさが浮き出てくる。


どうしたらいいかわからない。しかし自分は寂しい、深く寂しい。つながることができない。


ただ、そこからしか戦争に深く強い異義を唱えることもできない。ソクーロフはそういっているように思えた。