それを脱ぎ捨てながら死に向っていく
一昨日はけっこう元気そうに日記を更新したのだが、昨日ちょっと出来事があり気持ち的に不安定になり、少し情けない気分。
人が生きていくためには何が必要か。まずは命。命あっての物種というではないか。まあ当たり前か。でも当たり前のことが見落とされているように思う。
よく命が大事だというと「お前は生命至上主義者か」といわれていることがある。しかし何をいったりやったりするのにも、自分が生きているということが前提だ。何を考えるにしてもそれが始まりだ。このはじまりが確認されないでどれだけの悲劇が起こっていることか。名誉も命を賭けた行いもおそらく生命存在という担保なしに存在し得まい。
死者を悼んだり、死者のことを思うには、墓やお経より先にその前にいて読む人がいなければならない。もちろん鳥葬とかあるけども。しかし鳥葬を考えた人は「鳥」が解体することに自然的な何かを見いだす哲学があったのだと思う。
最近愛情ということを考える。愛情や友情が大事なのはなんでかというと、そういうものがあることで、なんとか生きていけることがあるからだ。それはしかし、恋人や家族との気持ちにおいても時に互いを縛りあい、お互いのやり取りをややこしくさせるものでもある。様々な生存の背後にある条件や潜在的な存在拘束がそれぞれの個を縛り、それぞれの関係の間をも知らず知らずに縛る。
この縛りの鎖をどう解いていくか。あるいはそれを解くとどのように私たちは変容するのか。
めしや、棲家や、服がなければいきていけない。そうだ。しかしそれを作ったり与えたりする手やそれを着るからだがないとどうしようもない。服なら脱ぎ着して、棲家も掃除したり改修したり、飯なら作ったり。
つまり手入れが必要で、愛情や友情も手入れを怠るともめる。もちろん愛したり愛されたりする人も日々変化する人間であり、生もので、それぞれの感覚や原則がある。だからこれといった正解はない。正解があると思い、こうすればこうなるという形では生命は存在しない。けれども下心があったり、自分の問題がこじれていると相手にとっては暴力にすらなりうる。たとえ殴らなくても。
しかしそれが下心であるかはおくとしても自分なりの思いがなければ、他人と接するということ自体が成立しない。それがたとえ誤解の元であったとしてもたとえば誰かに「会いたい」と思う気持ち、それがなんらかの形で潜在的にもないと会ったことにならない。しかしそんなにまとまった形で運命に出会うことはないのでカケラを集めているとなんとなく絵が浮かんでくるような感じで、自分の必要が感じられる。またその絵が破られることもありうる。
これはもっとも家族等の近しい人だけでなく、遠い人、様々な他者にも生命やものに対しても、自分が自分の思いをいつもしっかり握っておかなければ、危機やトラブルにおいて、軸を失い、自分はバラバラになる。汚いものを含めたそれは自分の気持ちであり、ひとつの客観物である。
下心とかいう自分かわいさの心がすべてイケナイとなるとこれまた生きる術を失う。この下心を取り崩し解体しながら、その意味を問い、それを脱ぎ捨てながら死に向っていく。
気持ちとか心とかいうし、もののあわれな事柄のようなのだが、この「もの」というのが問題だ。もののけの「もの」物質や物理の「もの」ものごころの「もの」つまり、気持ちといわれるあやふやなような何かは生命存在にとってそれなしには生き得ない根拠としての「もの」なのかもしれない。
なんて。