細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

本日

本日は反省にぴったりの日です。雨降ってたからか。かれこれ中学2年生のときでしょうか、反省しなさいと周りの人がいう場合多くは「黙れ」という命令かなと思って以来、反省すると人より一手遅れてしまうと思っていました。
その認識はあまり変わりません。もちろん、自分のミスとか経験を反芻してその意味を考え、自分の中に位置づけないと同じミスを繰り返すわけですが…


でもまあざっくばらんにいうと、なんか今日は雨だからかなんだか知らないがなんか最近の日記は長いなあと反省しました。それはなんかがゆるすぎ、なんかがカタクナで、つまりだらだらなんである。


反省した。けど似たような過ちを繰り返すかも。


私は毎日この公園へ来て、しばらく休息することにしているが、今ではこの若木を眺めるのが楽しみの一つになっている。もうこんなに成長したのに、毎日見ている目にはその成長が少しも見えない。しかしそれは絶えず大きくなっているのだ。私が生きている間に前にあったマロニエのように大きくなるかどうかわからないが、いつかは必ずそうなるであろう。私はこの目に見えない、しかし不断の成長に深く感動した。それはもちろん、フランスでも、パリでもないが、私はこのごろむしろそういうものにひかれるのである。それは、そういうパリでも何でもないものが、実はパリというものの本当の基礎になっているからである。いわゆるパリと呼ばれ、ある憧れの対象となるもの、それはそういうパリではないもの、ちょうどマロニエの巨木の目には見えないが不断に行われてやまない成長に比較することのできる、営みの結果なのである。人間は他人がなしとげた結果から出発することはできない。照応があるだけである。これは文化、思想に関してもあてはまる。たしかに先人の築いたその上に築き続けるということは当然である。しかしその時、その継続の内容は、ただ先人の達したところを、その外面的成果にひかれて、そのままうけとるということではない。そういうことはできもしないし、できたようにみえたら虚偽である。数量的見地から純粋に外面的にものを抽象し、分析し、綜合する自然科学ではもちろん事情がちがう。しかしそこでも、頭からすぐ他人の業績の上に築き続けることはできないであろう。たとえ最小限ではあっても、他人がたどった跡をたどり直す必要があるであろう。(森有正『思索と経験をめぐって』)

って結局長い引用になってしまった!


なんかこれ読んでたら激しい脱力が起こりました。つまりなんか誰かの文脈に乗っかって話してたら、自分の話ができないなと。人の話を受容することは重要。だが、自分の話と他人の話の接点と断絶のポイントがわからなかったら、話していることにならない。つまり疎通とか感覚とかエロスは発生しない。空気みたいに記号の紙ふぶきを追うようです。それでは気持ちよくならないし絶望は深まる。


私が文章を書くのも自分で自分の山道とか流れを作る中で出てきてしまったのかもしれない。それは拙い。拙いからときどきがっくりくる。しかしがっくりくるそこにしか、自分の位置はない。「反省」というのはこの「がっくり」「俺ここまでしか登ってない」みたいな。いや逆に「落ちてる」「腹に肉ついてる」みたいな。


うっかりのっかかるといかん。受験勉強してて、自分なりに実はそれはなんかの修行のようだった。社会や他者の仕組みや働きを自分の言葉と戦わせる中で、自分の言葉と他人の言葉の間に綾ができ、協定や緩衝地帯ができ、うまくいけばなんかいい気分やだるい感じができる。それは実は自分と他人の戦いを通してできあがるんである。


しらん間になにかが刷り込まれるかどうか。無力な内に妙な考えが入っていないか。あるいは受けいれることをただ拒んでいるだけになっていないか。それを自覚することがliteracy(読み書きの能力)である。それがしにくい世の中であるが、そんなことは知らん。私は話がしたいし、黙っていたいし、聞いたり聞かなかったりどこかへいったり、いかないこともする。それらは全て私がなぜか存在してるから、そう意思することができる。それはもう圧倒的に周囲の有象無象はどんどん情報という名前でしみこんでくるからだ。つづめていうなら、好きにするってことでした。こういう認識が今最も大切だ。全然反省になってない。。