細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

労働と家族についてつれづれに(2)―ハンナ・アレントのこと

昨日は少しハンナ・アレントについて批判的に言及した。
家族、労働についてつれづれ - 細々と彫りつける



しかし今日考えてみて、なぜアレントが労働を批判的に見るようになったのか考えないといけないなと感じた。そうしないとフェアではない。
人々が互いの存在を確かにあらわし、それに互いが敬意を持ちながら、しかし議論のうえでは是々非々であるという社会を議論と合意によって運営していく。そういう統治を支えると彼女が考える原則や文化が失われた。そしてそれより以上の力(暴力)で社会が動かされていくさまにほとんど絶望的な怒りを彼女がもったからであると思う。

現代の私たちをも覆う怒りであるように私は思う。「なぜ話が通じないのか」「切れやすい○○」という形で、あるいは「ブログ炎上」などなど下世話な、しかしある意味では事の本質を幾ばくか言い当てる言葉が次々と衣装を変えて飛びかう。このようなお互いが話をする前提あるいは、空間が断ち切られ、相互にうまく理解できない社会状態。それに似た何かがかつてアレントの上にも訪れたということかもしれない。アレントも明晰ながら非常な混乱と疑問、不信をもちながらそれを見ていたにちがいない。彼女は言う。

公的領域は、人間の手になる仕事とか人間の肉体の労働というよりは、もっと特殊に「人間の作品」である。
しかし、人間の達成できる最大のものは人間自身の出現であり、現存化であるというこの確信はけっして自明の事柄ではない。このような確信にたいしては、人間の生産物は人間自身より永続的であるばかりか、人間以上のものであるという<工作人>の確信が対立しており、そのうえ、生命はすべての財のうちで最高のものであるという<労働する動物>の固い信念が対立している。したがって後二者は、厳密に言えば非政治的である。しかも<工作人>と<労働する動物>は、活動と言論というのは、怠惰にすぎず、怠惰なおせっかいか無駄なおしゃべりにすぎないとして、これを非難する傾向があり、一般に、公的な活動力をいっそう高いと思われる目的にどれだけ役に立つかという観点から判断するだろう。つまり<工作人>の場合は、世界を有益にもっと美しくするという観点から、<労働する動物>の場合は、生命をもっと安楽でもっと長くするという観点から判断するだろう。しかし、このことは、彼らが全然公的領域がなくてもうまくやっていけるという意味ではない。

 例えばこういう場面を想定してみよう。マスコミや評論家のおしゃべりは、つまらない。嘘の垂れ流しであると誰かが言う。これはある部分ではそう間違っていない。国会も何もくだらないおしゃべりが充満しているとまた誰かが言う。アレントはこう言い出しそうな人間として、おそらくある意味では蔑視から「労働者」をまず置く。「俺たちは食うことや家族を養うことで精一杯なのだ。そういうふうに俺たちはがんばって生きていっているというのになんだあの政治家どもは減らず口や選挙に受かりたいだけだろ」またある人はもうひとつの人間類型を置く。「工作人」非常に多義的だが、技術者でもいいし、今で言うならば役に立つ、素敵な人生を演出するとかいう感じの仕事でもいい。彼はいう。「私は、お客様の笑顔が第一なのです。それ以上の難しい話はわからないのでご勘弁を。もっとよいサービスの提供が急務です。そのために合理化がはかられればよいのですが…しかしもっと楽しい時間をすごすことが大切で、話はそれからでは?」

 相当な皮肉でアレントはこういう場面を設定する。それはなぜかそういうふうにして「人間の作品」であるはずの公的領域での提案やなにかが堅苦しい割りに役立たない話として価値を下落させ、そうして社会が危機に瀕していると見たからだ。彼女は、こういう人間達がそうしたとまではいっていない。(ほぼいいかけてはいる)しかし、あなたたちもそうであるはずの人間の社会の存続に関わる議題がそれぞれの忙しさやエゴで見捨てられたら、そして見えない悪口や噂だけがつのり気がつけば、それぞれがそれぞれを信じられなくなり敵と見なすようになれば、社会は成り立たないのではないかといったのだと思う。

 たしかに堅苦しい話題ばかりしていると疲れる。しかも見やすい形がないので有用性、即効性の観点からははねられる。一向に埒があかないからと慌てる人はスピードを連呼して丁寧な議論が排除されたりもする。そしてアレントの話だってどうも堅苦しくも見える。しかしアレントは自分の心配や憂慮が自分の生命だけでなく誰かや様々な人へと届けたいと信じていたはずだから、怠惰やおしゃべりとみられ、そのように実社会で扱われるのが辛く傷ついたのではないだろうか。そして戦後のアレントにはほれみろとまではいわないとしてもやはりこうなってしまったという大きな落胆があったにちがいない。
 アレントは何もしていない机上の空論といわれようが、小難しく役に立たないおしゃべりといわれようが伝え守りたい何かがあったにちがいない。
 それをひとつは、「出現」といったのだろうと思う。出現というのはappearであるから、あらわれる、あらわすということ。それぞれの言葉が固有の誰かによって語られているという事実。誰かが何かを伝えようとして自分の身を賭ける切実さのようなもの。そしてそれを出現させること。それぞれのかけがえのない声を出現させること。エリート主義的でありながら一番良くとった場合こういえるかもしれない。そしてその核にはまさしくその人のwho(正体)がある。それへの敬意。その人のもっとも伝えたいこと、その有様に出会うこと。しかしこういうとかっこよすぎるし、それが昨今のブログ炎上のように様様な誹謗にさらされて実は意気粗相することを端的に根性なしともいえない。あるいは目立つだけという形も存在してしまう。しかし恐らくお互いの存在をしかと感じることによってしか、礼節あるやり取りは存在しないとアレントは考えたのかもしれない。これはふつうのことであって、実際にあったり謦咳に接したり集まりをもつことは人が集まることだからおそろしく難しいが、そこでの楽しさはあるということだ。もっとアレントの言葉を「寄り合い」とかそういう平たい次元に置いてもいいかもしれない。そのように他人同士で話を聞き一緒の時間を過ごすことの意味があるというのである。

 しかしそういう風に集まることと同時に必要なことは、それぞれがそれぞれひとりで考えたり感じたりする時間をもつということだ。彼女自身もおそらく共同で何事かをなすことへの疲労や絶望は大きかったはずである。そしてそれがある意味では普通に働いて生きている人を野蛮と見たり、ひどいとみるある意味での上品さ、裏を返せば蔑視があると思う。
しかしここで引く文章は彼女の『人間の条件』の末尾であり私は一番好きだ。本当のところ誰もが静かな時間を持ちたい。私だってそうなのだといっているように思う。彼女は言う。

最後に思考について言えば、私たちは前近代と近代の伝統に従って、<活動的生活>を考察する場合にはそれを取り除いておいた。ともあれ、この思考も、人びとが政治的自由の中に生きているところでは、まだ可能であり、疑いもなく現存している。しかし、一般に思想家のいわゆる象牙の塔の自立性が云々されているにもかかわらず、残念ながら、思考ほどもろい人間能力はほかになく、実際暴政の条件のもとでは思考することよりもむしろ活動することのほうが容易なくらいである。生きた経験としての思考は、これまでずっと、ただ少数者のみ知られている経験であると考えられてきた。しかしこれはおそらくまちがいだろう。そしてこれらの少数者の数が現代でもそれほど減ってはいないと信じてもさしつかえないだろう。この問題は、世界の将来には関係なく、関係があるとしても限られたものである。しかし、人間の将来にとっては関連がなくはない。活動的であることの経験だけが、また純粋な活動力の尺度だけが<活動的生活>内部のさまざまな活動力に用いられるものであるとするならば、思考は当然それらの活動力よりもすぐれているであろう。この点でなんらかの経験をしている人なら、カトーの次のような言葉がいかに正しかったか判るであろう。「なにもしていないときこそ最も活動的であり、独りでいるときこそ、最も独りではない。」

ここにはさみしいながらもわずかな人間への期待が残っていて、それを大切に残してきたアレントの思いがあるように思う。アレントが労働を批判する時、それはなにもしていないように他人からは見えてしまう自分のありさまがひどくさびしかったからかもしれない。ここでは思考と限定されているが、おそらくは世界から退避して、苦しいながらもさまざまに思いをめぐらす自由の感覚。それはもっとも有用性という点から見れば無きものとされがちだ。しかし私たちが自分を傷や不信や誤解からわずかでも回復させるためには、無用であるようなそんな時間とそのように無用であることで、実は様々に考えて自分のうちに隙間や襞をつくるそういう時間が必要なのだ。そこで様々な情念に苦しめられながらも、自分で生きていく、人を迎える自分というものができるように私もかんじるときがある。かつてこの言葉に「何もしていない」私は勇気付けられたことがあった。

※引用はすべて以下に拠った。

人間の条件 (ちくま学芸文庫)

人間の条件 (ちくま学芸文庫)



※テーマとして近いと思われるものにArisanさんの記事がありました。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20060227/p1
ここに引用しておきます。非常に明快に書かれており
私のエントリより読みやすい方もいるだろうと思います。