細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

家族、労働についてつれづれ

昨日のエントリはうまく像を結ばなかった。なんかまだ不明の部分が多かった。http://d.hatena.ne.jp/ishikawa-kz/20090211またこんどの宿題にする。
 
 自分はこないだ両親と両親の実家のある四国へ法事に行ったのだが、そこで以前よりは父や母の言動に左右されていない自分を見た。いや左右はされるのだが、以前からあるこの人たちにいい顔をしないといけないという内的な縛りを自覚するようになっていた。
 だから親父の言うことを聞いていたほうが波風立たないかなとか、母に気をつかわないと苦しめるかなというときでもなるべく自分の意思はいうようにした。表だけあわせているとストレスがたまるからだ。そうすると一緒にいても楽しくない。

 これはやっと人並みのことができるようになったといえるのだが、なんでかなと思う。

 考えられるのは家というのはまあ家族というのは子どもにとって親の経済的・心理的・関係的な事情が第一だから、子どもなりにいろいろ配慮するってことである。なぜ配慮するかといえば、機嫌を損ねたら自分も辛い上に見捨てられて自分が生きる場所がなくなってしまうというリアルな恐怖からではないか。そう思う。その「配慮」「遠慮」の習慣はとても深く深く内在し、自分の心の掟になっていたりする。しかし外に出ればそのような「配慮」は通じないわけで、苦しむわけである。

 また子が親に行う配慮というのは、単に恐怖や打算からだけ出ているわけではない。しかしまあ心理的なだけでなく実際のサバイバルの問題としてその実際の問題は大きい。しかしそれがあるとしても、それは子の親に持つ様々な情(愛情や憎しみや嫉妬や感謝や様々な)から出ているのである。実はコミュニケーションの多くの(全部ではない)パターンはここから出てくるかもしれない。もちろんそれ以外にも近隣、子供同士、他の大人、社会、言葉、自然からも子どもは交感を行うがどうしても最初に長くいて、世話になった人間には様々な情を持たざるを得ない。それは育てられるという子どもにとっては生殺与奪の権限を親に握られた経験からきている。だからこそその支配は根深く、逆を言えばそれが個性の大きな部分も占める。また現在虐待ということを考えるにつけ、子どもの生存の多くに関与する子育てという経験は誰にとっても意義深いものでありながら、非常に苦しいものでもあるから、その中で多くの人間が自分は親として自信がなくなるというのも当然である。まず子どもの生き死にに関わっているし。一つ一つ育てる親も子どもも一回限りの未知の経験だから。その上に貧困や孤立があればその不安や苦しみは増大するだろう。

 実は今日フリーターズフリーの02号を買ったのだがそこで国澤静子さんの言葉などにも出会い、またワーカーズコレクティブのはなしだとか、読んで思ったこと。あるいは国澤さんがいう「労働問題としてのセックス」や「家族って言うところに入ってくると(運動家自身も分析の)詰めが甘い」を読んで思ったことだ。

 自分自身も今漸くある意味で少しだけ子どもとしての家族経験のある段階は抜けようとしている。今は結婚はしていないけれども様々な人との関係も生れてきている。ここでいえることは、労働や自分で生きていくことの芯には、「生きてても悪くない」という感覚や「自由」の感じができてこないと大変生きづらかったことだ。

 労働にしても家族にしてもそこをどう考えるか。キーになるのは自由ということである。労働で言えば本来なら拘束されているという不自由感と自分で稼いだお金でわずかでも自分の自治・好きなことが可能なことだ。これは両面である。今はこの二極が大きく引き裂かれていて、バランスは異常におかしくなっている。

 また家族というのもなくては子供たちが育つ場所の多くが失われるのだが、しかし現在の労働と社会のあり方ではこれを子どもや養育者にとっての大切な経験の場になしえていないことだ。

 20世紀にはいるまで、労働と家族は日陰の存在だった。もちろん労働が苛酷なものでいいにくいが「奴隷的な」ものだった。戦争があって、その奴隷的な使役性は極限に達し、戦争が終わってもやはり労働がどこかで人々を隷属的な環境に追いやる性質は消えなかった。
 しかし20世紀最大の労働に関する女性哲学者であるハンナ・アレントのようにやはりかなり考えても労働は最終的に隷属しかもたらさないと捉えるか。詳しく言うと、アレントは大量生産・消費社会において労働の論理が全社会化し、目に見える賃労働以外の活動や言論や参加の次元を破壊したと考えたようなのだ。これは直接にはナチスによるホロコーストにおける人間存在の道具化、石鹸等への人間存在のおそるべき転化という事態、あるいは動員型の労働−戦争社会への批判が下にあるだろう。効率化、全体化、人間そのものを道具化し単位化することへの批判。しかしそれはエコノミーや労働が元々人間を奴隷化するという歴史とどのようにつながるか。古代ギリシャのポリスは奴隷が下部構造を支え自由民が政治を行っていた。アレントはあるねじれをもって、奴隷が公的・政治的空間を間接的に下から支えることを致し方なしとするのだが。しかし労働と政治はそのような序列関係にしか立てないものか。一人の人間の中に労働と活動参加は、内在するはずだ。アレントは20世紀の戦争やナチズムを通して、もう労働はダメだ。しかし労働がなくては社会はまわらない。それは誰かにやってもらう。その上で自分は思索や政治的言説をするという。ここには政治屋の問題、エリートの問題、労働社会への参加へのねじれ、フェミニズムに限らず、手を汚すことをおそれる評論家の問題、反対にいうと生活主義的な振る舞いもみせつけるインテリの問題などなど。更にいうと参加から落ちこぼれた人たちの問題、一方での政治の劇場化の問題もある。つまりは、アレントは活動という形で隷属化しない人間の社会参加を考えたが、そこで労働という形はある暗がりに追いやられてしまい、彼女自身に後の人たちが3Kは嫌だという意識の祖形をみる。しかし3Kだとしてもそれをどのように社会の連帯の中で分担できるか。また労働をどのように自分たちの必要なこととの絡みの中に取り戻せるか、それをつうじて様々な形の労働や参加の肯定に至れるか。思いつき覚悟でいうが、アレントが提示したのは現代型の高次の労働からの疎外であり労働を社会から疎外する思考の始まりであり、それは歴史的に存在してきたものではないかと思っている。しかしこのねじれを書くことができたアレントは凄いと思う。この側面から見るとレヴィナスの家やエコノミー、女性へのアプローチも新しい理解が可能ではなかろうか。

 ここは大きな分かれ目である。私も労働の隷属的な印象は大きくある。しかし誰かが労苦を追いすぎて死んだり、苦しむという形で労働が、人のある部分を削ってきた。そこがおかしいのではないか。人間には不自由や何かの基にあるということで学ぶこともあるが、自分が創意工夫して自分のあり方を作っていくということが、なければ労働は苦しいままではないか。そしてそのために私の回り道は実は必要な期間だったのではないかと思う。

 労働を家族を一方的に悪にしてもしょうがない。苦しいのは嫌だという誰もが感じる感覚から初めて、そのありようを我々の必要な方向に組み変えていくことが必要である。それらは自分で自分たちの生存を組み立てるという自治に必要なのであるから。



フリーターズフリーの感想はうまく書けなかった。すみません。でもいろいろ示唆になりよかったです。
01号の感想だが、当記事を書いた後見つけて関連がありそうなので
こちらの幻想第一さんの記事を引いておきます。
『フリーターズフリーvol.01』の感想 - 幻想第一