細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

フリーターズフリートークイベントについて再びいくつか考えた

 まず次号予定として障害者あるいは動物をかんがえているというお話が生田氏からあった。労働や生産の体制のなかで、直接にはその価値を認められない動物や重度障害者にも彼らの存在自体に何か労働や生産の風通しを良くし雰囲気をよくしうるオルタナティブが考えられるという紹介の仕方だったように思う。
 かつて心身障害者介助にたずさわっていたから、いろいろ偉そうに行ってしまいそうになるが、それは慎む。けれどもまあ危ういお話に感じた。次号を見なければわからないけれど。
 

http://www.chiiki-dukuri-hyakka.or.jp/1_all/jirei/100furusato/html/furusato054.htm
 上記リンクを見てください。例えば糸賀一雄滋賀県で60年代に重度心身障害者の療育に関わる中で、発達保障ということと、「この子らに世の光を」ではなく「この子らを世の光に」しなければならないという考えを出した。糸賀の本を再読して見ようと思う。どういうことかというと、重度心身障害者は現実的に現在の健常者中心の生産労働体制からは疎外されている現状がある。そういう現実は糸賀氏の頃からものすごくドラスティックに変わったということでもなさそうだ。
 さらにいえば実はまず現在の生産や労働、消費の体制が大方の人にとっても苛酷かもしれないという憂慮も私にはある。
 そんな中で障害者のお話を世の中の捉えなおしの一要素としてのみ考えるのも失礼ではないかと。それは糸賀氏の言葉を借りると「この子らに世の光を」の発想なのだと私は憂慮する。それは私自身もおそらくそう思い安いからだ。
 しかし糸賀氏のお話は、そういうお目こぼしや贔屓目を現体制から勝ち取る話とは逆である。むしろ問い直しをラディカルにすすめるならば、この子らを世の光にしよう。というかそこに今存在する人や生き物が即ちどんな形態をとろうと生産者であり、それが世の中の網の目を目に見える、あるいは見えない形でつくっているそういう生産者として障害だろうがなんだろうが一緒に生きている事実をみなさいということなのだ。

 糸賀氏の「福祉の思想」などを再読せねばならないが、現体制の補充やオルタナティブではなく、今ここにある存在として誰もが生きているだろうよという身も蓋もなさをいっている。それは平等主義ともちがっていて、世界は実際に様々な形態の生命や物質で形成されているだろうという全き事実を言っているのだと思う。

 むかしから嫌なやつ好きなやつ、いろんなやつと共存することのめんどくささと素晴らしさみたいなことを考えている。ここで書いたことは少し杞憂に過ぎないのかもしれないが、どうもあのイベントでの言説の政治みたいなものへの傾斜は気になった。大事なのは事実というか実際にあるもの、いるものである。生田氏も栗田氏もその可視化こそを目指していると思うのだが。しかし難しいのは思考や分析のための言葉をどのように考えているかで、見える・聞こえる景色までずいぶんちがってくるってことだ。