細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

椿三十郎

昨日は森田芳光の『椿三十郎』をテレビで見た。最初は織田裕二に違和感を持ったのだが、その存在感の微妙な軽さがそのままなぜか深く孤独である浪人の存在感になっていた。イデオロギー的に見ると、平時において刀は抜き身のままではいけない、ちゃんと鞘に収まっていないといけないという論理は日本における武力の位置を思わせる。

しかしもっと考えていくと、実は平時と非常時という区別自体が溶け出すような感覚がある。それはいつもいつも刀を差すという行為自体、よく自然状態での権力が必要だという論理を呼び起こすのではなかった。この映画では平和が尊いとかなんとかが語られているのではないようなのだ。

織田扮する椿やトヨエツ扮する敵方の用いる索敵や揺動作戦、スパイ行為自体が人の信頼を裏切るという形で相互信頼そのものに依存していることを明らかにする。知性や力自体が、ある共同体の暗黙の存在の上にある。

問題は何か。実は暴力は何か人と人の絆の影の半身なのだ。そして暴力が依存する絆や共同体こそきちんと吟味され、それを深く味わうことによってしか、人は生きている感覚をもてないというのが人間の不可思議さだ。
根底にある信頼が崩れたときに暴力は生まれるのであって、暴力が信頼を破壊するのではない。何かが殺されたり、破壊されているとき、殺すものの中だけではなくあらゆるところで見えない聞こえない悲しみや排斥された孤独が既に充満している。それが人々を窒息させ決定的な加害・被害関係を形成する。
デビルマンなどで感じるのもこういう感じかな。でもすごくへらへらしていてコメディタッチですらあるから、苛酷な生存のおきてが現出するのだ。織田裕二はこういうしんどい清濁混在の人をもっとやってほしいと思った。