細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

マザー

 こないだNHKを見ていたら「その時歴史が動いた」の再放送をやってた。マザーテレサの回でした。
 その中でマザーが「貧しい人とは?」と尋ねられ、「それはわたしでありあなたなんですよ」と答えたという言葉が印象に残った。こういう言葉が機能しているかどうかというのは非常に大事だと思った。貧しい人、病める人はカテゴリーではないんである。どんな人も病気や貧乏になりたくないし、自分は無縁でありたいとは思う。私も素直に貧乏で食うものもなく、仲間もいず、苦しむのはいやである。自助も必要である。自分は貧しくなりたくないというのは心持として普遍的だ。しかしそういう心持がやはり実際に誰かを苦しめることすらある。また逆に病人だから構ってくれるはずと思うことも不幸である。私は病気からだいぶ元気になってきたので、不幸に陥っている人を見るとなんかかまってくればかり言うなと思うときもある。おかしいね。ついこないだまで私もいつもかまってほしいと親や友人を困らせていたというのに…

 そういう私の状態にマザーの言葉はシンプルな光をくれた。
 例えば社会学なんかではパーソンズというアメリカの学者さんがかつて「病人は労働社会から避難できる休めるという役割があるんだよ」といった。実際そうだ。障害年金は病気がひどいために社会参加できないという場合に支給される。
 もちろん条件付けは、社会の資源がお金が有限である以上大事。けれど、それは貧しい人病める人にとっても元気な人にとっても微妙に欠点がある。それはそれぞれの役割が固定してしまうことだ。
 元気な人も病める人貧しい人もそれぞれが固定されてしまえば、それぞれ息苦しいはずである。生活保護を叩く人も叩かれる人もどちらもわかってくれないことに辛さを感じる。
 そうしたときに、「それはわたしでありあなたなんですよ」という声はとりあえず非常に大切だな〜と思った。だって、誰でもどこのだれべえではなく、私としてみて欲しい。貧しい人とかおっさんとかそういう属性で判断されてばかりは嫌なのだ。もちろん役割を得る事で「社長」と呼ばれたり、兄ちゃん、母ちゃん、いつも声のデカイAさんと呼ばれることは大事である。けれど、誰からも相手されないと人は自ら個別性をそぎ落とし、ついには誰でもない人になってしまう。そうすると声をかけられても届かない。人間とは相手にされなければどういう手を使っても相手をされようとするし、どんな手を使っても関係を切ろうとする。それはもう親子だって、友達だって恋人だって、同僚だって王と奴隷だって同じである。そういう原点に立ち返る。
 難しいケドも共感を絶した絶対的な孤独ってのはあると思う。けれども、なんかわからんが死んだらわれわれは誰でもなくなるとあたしは思うから、その時までは「私」というやつをやっていくことしかできないんだろうなと思う。
 
 もちろん私は無条件で持ち上げたり貶めたりするほど、マザーについて知らない。ノーベル平和賞についてもその価値というのは正直言ってわからん。マザーもノーベル平和賞を無条件で素敵だとは思わなかったと想像する。眠くなったので今日はこれまで。

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