細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

久しぶりに宮台真司の本を読みました。

14歳からの社会学 ―これからの社会を生きる君に

14歳からの社会学 ―これからの社会を生きる君に

昔の宮台真司はよくも悪くも暑苦しかった。『終わりなき日常を生きろ』という本にも見えるようにオウムのような終末思想はダメ、あえて「退屈なまま生きよ」、輝きなんて得られない「まったり」で行けと命令しているように見えました。
彼の「輝きや祭りや生きがいなんてそうそう転がっていない」という感覚は健在のようだ。けれど、でもそうして生き抜けるのには相当の覚悟や修練がいるという話にシフトしているように思いました。宮台さんの御説を自分の言葉に置き換えてみます。

そうそう生きがいは得られない、しかし生きがいを与えてくれない社会に縛られ社会を嫌っても悪循環だ、まず社会や人間をよく知りなさい。そのために俺は社会学を勉強してきた。人間は誉められたり、自分が大丈夫だという「承認」の感覚がなければ辛いことに耐えられない。俺もそうだ。俺は幸いそうではなかったが、耐えられなくて皆キレタリ人を殺めたりするのだ。そうしたらあなたを支えるはずの社会が壊れてしまう。それはおじさん的にはかなしい。だから少しずつでもよいから、承認を手に入れられるようによく遊びよく学びなさい。そうして生きてくのも悪くないくらいは四の五のいわずに感じて欲しいんだよ。もちろん人はさみしく死んでいくもんだ。そういう意味では生きていることに力みかえるほどの価値や意味は付けられない。けれど、人間は自分や周りの人間が死ぬことを知っているから、それがやがて経験を深め、世俗的価値から少しだけ自由になり、後悔しないように自分や自分を守ってくれるもののために生きるんじゃないかな。

というわけで、難しい部分を端折ってまとめてしまいました。
しかしこれだったら普通のおじさんと変わらないのですが、別にそう思われてもいいと宮台真司は思っている節もあります。それは彼が50を前に母を亡くし、娘が生まれるという経験をした一人の父親として語っているからです。非常に感銘を受けました。知的興奮も味わえました。
けれど、クリプキを持ち出して固有名をもつかけがえのない実存としていきたいという望みを強く語ることや、そのような固有名として「歴史に名を残したい。けれどそれは無理だろう」みたいに言っているところは宮台さんならではの超人願望というか押しの強さではないだろうかと思いました。そのようなある種の超越への衝動が強くあらわれるのが尊敬できる人物をもて!というところで小室直樹広松渉というグルについて語るところ。これらは暑苦しく修行してパワーアップして戦う社会学戦士になった彼の履歴の奥底にあるものだと思いました。

自分のかけがえのなさを語る題材としてSF(交換可能性とか社会システムの創造者問題について)を語るところや「承認」というところで愛されるよりも「愛されやがて与える人になりなさい」といわんばかりに自分の恋愛哲学を語るところも、やはり宮台真司らしいなあと思いました。

でも少し暑苦しさが減ってきたのです。

また最近リオタールの『こどもたちに語るポストモダン』を読んでいるのですが、社会についてのある統一的な語りが難しくなったというリオタールの状況認識がファシズムをどう回避するかということに、あるいはファシズムをどう考えるかということに結びついているのが興味深かった。絶望を起点としたある強力な神話としてのファシズム。統一的な理念や目的が信じられず、世界の実相とずれた段階で我々はどう生き延びるか。そこでファシズムに傾斜しないのはどうすればよいか。ある絶対的な名の元の強力な語りの磁場に引き寄せられないために。そうリオタールは言っているように思うのです。
そのことで、先ほどの宮台さんの固有名についての議論と重なる部分をリオタールから引用します。カシナワ族の語りの作法についてまず引用します。

「これが…の物語だ、私がいつも聞いてきたままの。私は私の番として、おまえたちに話そう、聞いてくれ」そしてこの朗唱は、次のようなもうひとつの決まり文句によって変わることなく締めくくられる、と彼はつけくわえる。「これで…の物語はおしまい。それを語ったのは…(カシナワ名)、白人たちのところでは…(スペインあるいはポルトガル名)と呼ばれている者」。この語りの儀礼が、語られる物語をそのたびごとに話し手・聞き手・主人公の三つの審級の名に固定しながら、その物語をカシナワ族の名辞世界に記入しつつ、正当化するのだ。

つまり古くからのカシナワの物語を語り継ぐという行為は単に昔話をオリジナルにしているのではなく、古くからのカシナワの名前やその世界の権威に拠りながらも、自分もそのカシナワ物語を語り継ぐ伝承者だという形で、自分を新たなカシナワの中に登録していく。カシナワのキャラクターに同一化しあるいは語りの共同体に入ることで絶えず神話は現在の個々人の姿を借りて生きつづける。個々人もその語りと語りを聞いたり語ったりする参加者になることでカシナワの正当性を自分に賦与する。つまり部分と全体が入れ換え可能である。リオタールはこういいます。

まず数において有限であり、時間からは独立したシステムによって個々の人々に分配される名前の固定性。そして、語り手、聞き手、主人公という儀礼規則によってそのたびごとに取り決められる語りの三つの審級への、名づけられた個人の、入れ換え可能性。

続けて(翻訳が分かりにくいので乱暴ですが私が当該書P78〜80の翻訳文を自分の言葉に変えてみます。フランス語が出来ないので暴挙ですが)


このカシナワの語りのシステムは、カントが専制的と呼ぶ最も旧式の支配システムが採用する政治的な権威の正統化の方法と何と似ていることか。クリプキの考える最も堅固な指示語である固有名。固有名は文化的な世界を束ねる。この世界は有限な数の名からなる集合だ。ここで使える名前はあらかじめ限りがあるからだ。この世界はずっと変わらない。そこへ人間が登場する。彼らは位置につき、他の名前に対する自分の関係や位置を決めることが出来る。あるひとつの名の元に。そして自分の位置とその他の名を持った成員との間の性的、経済的、社会的、言語的交換が始まる。あるひとつの出来事が、その伝統の中に参入するためには、カシナワの物語の中に場所をもらい、儀式においてもそこに位置を占め名を襲名し、カシナワの物語世界に包まれていなければならない。そうして新たなメンバーや出来事は、物語の出来事の中に組み入れられ、従属する。そうなることでカシナワ族の物語は新しい出来事による脅威から身を守り、各成員もパニクにならずに済む。そして物語は記述するだけではなく命令し価値付けし、人々の感情のエレメントにもなりうる。だから伝統的な物語は新しい状況に対し対応するため、各員はそれに則ってカシナワの権威の下にその対応や命令を正統化する。


これは何となく宮台の以下の議論とリンクするようにも思うのです。もちろんリオタールは批判的に用い、宮台は自己の実存の無媒介な肯定を語るのですが。

哲学者のクリプキという人は固有名詞が何を指すのかを考えた。宮台真司とは何を指すのか。性別とか能力とか容貌とか印象などはすべて「彼がその性別・能力・容貌・印象を持たなければ…」と反実仮想できるから指示対象にならない。不思議なことに「宮台真司が〜だった」の「〜」のところに何を代入しても、宮台真司が何を指すのかはまったくゆらがない。正確に言えばゆらがないからこそ「もし宮台真司が〜だったr」と反実仮想できるんだ。だったら、結論はひとつしかあり得ない。結局、固有名詞が何かを指示できることと、<世界>がひとつしかないこととが、同じ事態なんだ。専門的には「固有名詞の同一性は、<世界>の単一性と同じだ」という。「固有名詞を持つ入れ換え不可能な存在」とは実はそういう意味だ。だから、「記号」ではなく「固有名詞を持つ入れ換え不可能な存在」とつき合うとは、そういう固有名を持つ相手が存在するような<世界>であることに―つまり<世界>が<世界>であることに―感謝することだ。「事件」があろうがなかろうが関係ないんだよ。

私はクリプキの議論についてまるで不勉強なのですが、固有名しかそのかけがえのなさの保障を持たず、どれだけでも反実仮想できるというのは実は自分が名前だけついてて何者でもない、空虚な存在という感じもします。それが世界と同一であるなら、それは世界の命令を神託に変えるシャーマンのようですよね。彼の真摯さ、真面目さはこのようなある変えがたい絶望を起点としているのかなと思います。ある名前が世界つまり彼の言う「ありとあらゆる」全体とピッタリ重なるのならば、是非は別として、彼が天皇制を擁護する立場であることもわかるような気がしました。佐藤優のような論者の天皇制の現実主義的な擁護とはやはり色合いがちがうのかもしれない。

こどもたちに語るポストモダン (ちくま学芸文庫)

こどもたちに語るポストモダン (ちくま学芸文庫)