細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

いかんともしがたいが、いやではない―鮎川信夫の詩から

帰心

鮎川信夫

木を伐り倒す男らしく
空をいくらか明るくした
 それから人に会わない
背をこごめて街中で生き
手と膝をついて歩くこともあった
 いまでは腰がいたむ
空はいつもくもっていて
男はしきりに還りたがった


鮎川信夫はなんとなく敬遠していた詩人の一人だった。なんで敬遠していたのかわかんないんだけど。
わかんないけど、考えてみると、うーんと20代の頃一番好きな詩人は北村太郎だった。
こういうと、知らん人はなんのこっちゃとおもうだろうけど

北村太郎鮎川信夫田村隆一中桐雅夫は太平洋戦争後まもなく「荒地」という同人誌で詩を書いていた仲間だった。たぶんみんな兵隊に行ってきたと思う。北村、鮎川、田村は英語が堪能で北村も田村も推理小説やらなにやらかなり訳している。田村隆一の訳で有名なのはロアルド・ダール「あなたに似たひと」

三人とも詩はハードボイルドふうで、けっこう女にもてる気がする。三人ともたぶん若い頃は洋酒好き。でも、三人のテイストはなんかちがう。

たとえば田村は、いちばん実は飄々としている気がする。詩がそういう気がする。難解なようで実はクールながら、ひょうきんで、育ちのよい大らかな感じがある。

北村は、奥さんと子どもを亡くしたことを書いた「終わりのないはじまり」に衝撃を受けた。しかし、すごく自分をつきはなしていて乾いた明るさがある。

なんとなく鮎川にはそういうユーモアが少ない気がしていたのだ。もちろん先の二人だって字面はユーモアが少ない。でも、江戸弁というかなんかそういう都会の飄々とした切なさみたいな味がある。鮎川を勝手に深刻な芸術家肌の詩だろうなと思っていた。吉本隆明の本でも母親か姉だかへの屈折した愛とか死への志向みたいなことが語られていたし。。「遺言執行人」なんて言葉もあった。

実は鮎川の本を読んだのは24くらいのとき。「アメリカとAMERIKA」という石川好という作家との対談集だった。石川は若くして渡米して仕事とかした後作家になった。だから、けっこう前の本だが、アメリカへの愛憎みたいなことを語っていて、僕は面白かったのだがやはり戦争に行って仲間を失ったからアメリカのことがきらいな爺さんなんだなくらいに思っていた。


こないだ、鮎川の「最晩年の斉藤茂吉」という小文を読んで印象が変わった。
それで、鮎川の詩集を読んでいたら冒頭に挙げた「帰心」が目に入ったのだった。

「最晩年の斉藤茂吉」より引用する。

  わが生はかくのごとけむおのがため納豆買ひて帰るゆふぐれ

 平凡な、とりたてて言うことのなさそうな歌である。それなのになぜこの歌が心に残ったのかと自問してみると、全く個人的な理由からである。
 私の家では、納豆を食膳に供するという習慣がなかった。それで、たまたま気づいたときに「おのがため」それを買い求めるくせが、私にあったのである。
 若い時なら、そんなことはあっさり見過ごされる。しかし、働きが鈍る老境ともなれば、話が違ってくる。「おのがため」にする一切の挙措が、孤独の影を帯びるようになる。それが、納豆を買うというような、些細なことであれば、なおさらそのみじめさはいやますのである。

鶴見俊輔編「老いの生きかた」ちくま文庫より)


「おのがため」つまり小さなわがままに視点をしぼったのが鮎川の素敵なところだと思った。私は30半ばだから、まったく老境でないけれど、それでも0歳より、10代、20代のどれともちがうのがわかる。感覚が。でも、なにが変わっていったのかわかんないが鮎川のいう「些細なこと」に変化がある気がする。しょうがとか、みょうがとか、焼きなすとか、秋刀魚とか鯖とかそういうものが好きになったり、自分でも煮ものをつくってしまうあたりとか。それから体のことをよく考えるようになった。別に健康志向ではなく、うまいとか気分がよいとかいう我がままの形が少しずつじじむさくなっている気がするのだ。それで、これが大事なのだが、それでも別にいいやと思っていることだ。

ま、でも昔から魚は好きだったんだけどな〜

鮎川は「みじめさ」というが、自分はじいさんだな〜さみしいな〜ということが嫌なことばかりではないと鮎川自身思っている気がする。さみしいにひたったりして一人で納豆食うことが、まんざらでもないようなのだ。これで深刻イメージの鮎川は少し修正された。

年をとるというと老化ばっかり想像してしまうが、たぶん見る目線や感じる空気、食べ物の好き嫌い、呼吸、動作というところに薄々変化があらわれるというのが、人間が自分で実感する「年をとる」ということではないか。そして微妙に人から見ている様子と自分が感じていることがあっていたりちがっていたりして苦労する。鮎川自身、「年を取る」=老いさらばえる=かっこよくなくなると思っていたはずである。しかし、かっこ悪いんだけど微妙にその恥ずかしさもいいと感じる自分を否定できなくなったのである。しかしそれが行き過ぎるとやはりちょっとかっこ悪いけど。


たとえば、年をとることについて、私が実感するのは夏の空である。むかしはいじめられっこだったのに夏の空にはすこしだけ素敵なものがあるように思えた。しかし、今はそれがどんどん薄くなって、「暑そうだな〜」という嫌気オンリーだったりする。これは満更環境破壊のせいだけではないだろう。

「帰心」に出てくる「いつも空はくもっていて」の空は、単に不機嫌や雨のせいといったことではなく、ビールを飲んでも、少しは楽しいことがあっても、どこかいつも曇っているような空なのだと思う。それは自分の変わらなさのさみしい自覚の声のようでもある。変わらない、けど、こういう感じなんだけどというような。

這って歩く様子が生々しく迫ってくる。けれど、これは鮎川が這いつくばって生きてきただけでなく、もっと生き物そのものがそういうふうにかなりの時間横たわったり実ははいつくばって生きていること事実そのものではないかとも思う。たとえば魚は腹を下にしているのが生きている姿だ。(関係ない?)それだけではなく単にぎっくり腰や腰痛になったという事実もあるかもしれない。形而上と形而下がまだらになっていて、分かたれない。この感じは若さと異なる。けれど、まだらになることで、矛盾したり複雑になることで立ち姿はきれいになるようなのだ。そのような美しさになりたいという意外に純な心映えが詩に現れている気もした。

男と云っているし、男の詩のようだけれど、意外と「生き物」や「様々な性」にも通じるものがある詩だと思う。
最後にこれは最近はやりの「アンチ・エイジング」でも「老人力」でもない。かっこつけだったり重かったり晩年複雑な立場に追い込まれたかに見える鮎川が尋常に年を重ねていくしかなく、その部分がちゃんとあってよかったと思える。
同輩の北村や田村はじつは、晩年、かなり老いること自体に難しささえあったような気さえする。どこか若さに憑かれていたよう印象なのだ。(ちがうかもしれない)そうしてみると、巷の間の評価よりは鮎川はどうもちゃんとくしゃくしゃに折れまがって、まっすぐなところはまっすぐであったように思える。北村や田村については、ねじめ正一の「荒地の恋」に詳しいかもしれない。
続・鮎川信夫詩集 (現代詩文庫)
アメリカとAMERICA―日米摩擦の底流にあるもの (ちくま文庫)
老いの生きかた (ちくま文庫)