細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

有限主義

人間にとって、とりわけ一個人にとって、この世界、うつし世は抗争の場所である。とはいえ、砲火や弾丸、血や瓦礫覆われているという抗争もあれば、毎日を送る中で様々な関係や帰属の場所との陣地の取り合い、調整、関係の変化を含む抗争もある。
 お金や生命といったマテリアルでシビアな条件から、もっとわかりにくい存在根拠の争いがある。わかりやすいところではある選手が一軍登録されると同時に、ある選手は二軍行きである。給与にもかかわるが、自分の選手としての自負は自己の存在根拠と密接に関わっている。

 このうつし世にもともと各人の居場所や所有が定められていればいい。制度は住民登録やさまざまなものでそれを埋めようとしている。けれども、実存的には誰のものでもない場所に中途から参加を強いられているというのが我々の生の条件である。だからこそ、誰のものでもないからある程度の公正さや自分で開く余地が保障されているとも言える。
 
 しかし、誰のものでもなく、自分の存在根拠が明瞭には与えられていない中で、あらためてそれを獲得するのはしんどい。そしてそれが成長である。集団で、制度的に存在根拠を設定した時に、この地球は人という群れに相当脅かされ、地球という根底自体が痩せていく。

 環境問題だけでなく地球という根底が痩せることで、我々は再び人間同士により苛酷に向かい合わされる。地球というマテリアルな根底が緩衝となっていたため、人間の観念論的な=無限定な意識の領土拡張は、ある制限を与えられていた。かもしれない。そうでないかもしれない。

 ただ、自由を観念論的に設定した場合、精神の自由の覇権争いがはじまる。19、20世紀は物・金・領土の抗争の中で人は生命をすり減らしたわけである。だから、物質的な脅かしをひかえようとする思潮が出てくる。それはいいのだが、その上部構造である精神の自由の覇権争いは止め処もなく人間同士を飲みつくしあう。
 精神的食人つまり洗脳もそうだが、巻き込みがたの犯罪もつまり心中や何かもそうでないかと思う。それを止める方法はない。しかし、つまらない考えだが人間の生が有限であり、やれることに限界があるからこそ、その有限の歩みによりそい、有限の中に尊厳をみることがたいせつだと私は時折思う。そういう自分自身の限界の省察。自己限定というより。そうして有限の中に無限を望見することができるかもしれない。