細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

抑留から翻訳のコマが

 シベリア抑留経験のある芸術家メモ。石原吉郎は有名だが、詩人では鳴海英吉がいるということを今日学んだ。内村剛介高杉一郎、このあたりの作家は一時読まれたけれど90年代を境にかなりの本が本屋から消えた。高杉は岩波同時代ライブラリーから出ていて、いくらかは岩波現代文庫に移籍していると思う。内村は古本屋を仔細に探す方がよい。中公文庫にあったと思う。
 画家の香月泰男は、僕はとても好きな絵描き。散文家としても。確か実家に『私の地球』という詩文集があった。身近なことや身近な庭先のものを晩年は書いていた。若い頃の絵も荒削りだけど好き。一時立花隆がNHKでフィーチャーしていたし、美術館もあるんだけれど。谷川俊太郎の「旅」の挿画や表紙絵も香月。香月の「地球」という表現は、どこかで谷川的な「朝のリレー」みたいなコスモポリタンな感じよりも、もっと個的な感覚があるような。もっと生臭いのだ。それはやはり死者をもつからか。それと同時にもっと地政学的なものか。つまり山之口獏の地球のように「原水爆」に曝されると同時に自分がそのまま寝転がっている地面のような。山之口獏や香月の地球。それはシュミットのパルチザンのように、それでもって国境感覚を穴だらけにしてしまう偏在性=地方(極地)性なのか。偏在性でいうと次にこの人。
 長谷川四郎という奇才を忘れてはいけない。満鉄で働いていた。ロルカ、ブレヒトなど、どちらかといえば反ファシズム系の詩人を訳しているが危ない橋は相当渡っているんだろうな。おそらくベンヤミンなどを相当読んでいるがそのひけらかしが全くなく、花田清輝もその寡黙な力を恐れていたようだ。僕は長谷川四郎ではどうしても今はなき福武文庫の「カフカ傑作短編集」が忘れられない。格調高さでは池内の親しみやすさを評価したとしても優れているように思う。やはり今のオタクではなく教養人であったのだ。相当の外国文学に対する素養とわが国の地口、スラング漢籍、お話全般への造詣がないとできない。断片的なようで捉えにくい総合性の持ち主。このあたりもベンヤミンと似ている。

 遡るなら大陸とくにロシア(ソ連)と日本文学の関係は複雑だ。しかし、革命が端緒なのかな。まったく詳しくない。ごめんなさい。それから長谷川四郎にしても石原にしても相当語学ができたはずで、これは二葉亭四迷のあたりから事情はかわらない。なんとなくロシアと日本文学というと情報部がらみの様な気がしてしまう。革命と戦争という要素が大きいのかな。石原と長谷川四郎に関していうと、非常にある暗さというか得体の知れなさがあるのだ。
 その辺でいうと幸徳秋水は気になる人である。レーニンの帝国主義批判と孫文辛亥革命が後ろにあり、巨大な弾圧を受けるわけだから。

 語学をもつことで人は自由になる。幸徳秋水の師中江兆民の三酔人経綸問答の闊達さ、一年有半の自在かつ不屈の哲学魂を見よ。あるいはもっと広げれば、福沢諭吉のような思想家。しかし、語学は近代日本にとっていや現代でも極度に政治的な分野である。資本主義を動かす力とそのカウンターにもなる。しかし、国家にとって資本主義は極めて制動が難しい。これが近代の実存を実際何重にも引き裂いてきたのではないか。しかし、その引き裂かれを身にしっかり刻むなら恐らく相当悪魔的なエクリチュールを手に入れうる。そのために魂が危険にさらされても。翻訳が身についている人の文章には怖さがある。

 香月は絵を描いて育った人で恐らく普通に動員された人なので、インテリのねじれより実はラディカルなんではないかと思うことがある。気のせいだけど。でも、高杉一郎内村剛介、鳴海英吉は何の知識もなく御免。他の方々も知ったかぶりだらけですからすいません。