細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

モディリアーニ展に行こうか

 今日は中ノ島の国立美術館で開かれる「モディリアーニ展」に行ってこようと思う。
 石原吉郎関係で、田島正樹さんのブログララビアータ:石原吉郎の『望郷と海』と梶ピエールさんのブログd.hatena.ne.jp/kaikaji/20050616/p1#tb、それぞれのバックナンバーを読んだ。最近心身の具合がよくないため、くわしく論評する余裕はないものの、哲学・政治・詩・倫理という様々な領野をまたぐ影響を地味ながら石原はまだまだもっていると感じた。「戦後」的なスキームの中だけでなく、現実の語りがたさに深く到達しているからだろう。発語とは、実際に様々な現実や現象に対し、何が言えるか、言えないか、そもそも何かをいうことは何なのかという自己言及までも含む。しかし、現実にどういう現実認識の「構造」をそれぞれが持って、あるいは強いられて語っているか、語れないでいるかということが大事なのだ。これは詩と政治の断崖を綱渡りする位置である。表象そのものの不可能性に、あるいは自己批判に関わるのだ。
 梶さんの論評は「告発をしない」という点を強調する。また、田島さんは「等価交換」の批判という形で、覆い隠された現実を石原はちゃんと見ていたのかという問いかけを行っている。
 しかし、意思的選択が可能でないところで、実際どう生きるかというところで、石原は倫理を立てているように思える。私の場合いじめにおける加害・被害という関係性の中で、如何に告発が難しいか、言説そのものの不可能性の中で如何に言説を再起動させるかという問いを考えたりする。これは上山和樹d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20080707と微妙に問題枠組みを共有しているかもしれない。