細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

石原吉郎「詩の定義」より

ただ私には、私なりの答えがある。詩は、書くまいとする衝動なのだと。このいいかたは唐突であるかもしれない。だが、この衝動が私を駆って、詩におもむかせたことは事実である。詩における言葉はいわば沈黙を語るためのことば、「沈黙するための」ことばであるといっていい。もっとも耐えがたいものを語ろうとする衝動が、このような不幸な機能を、ことばに課したと考えることができる。いわば失語の一歩手前でふみとどまろうとする意志が、詩の全体をささえるのである。(「石原吉郎詩文集」P11”詩の定義”より)

最近石原吉郎を読んでいる。昔は仏頂面、深刻面していた彼の文章が最近はそうでもないように、少しずつ親しいものとして感じられる。

なにを書くか?やなぜ書くか?という問いがある。また詩とは何か?と。しかし、なぜ「書かれてしまう」のだろう?という地点、つまり表出してしまいながら、表出の手前まで戻るところが石原の詩のリアルであるのだろうか。
実は石原にして「いいすぎたこと」もあったのかもしれないなと思う。石原が気づいていようといまいと、それが石原を苦しめ、その無意識的苦しみの内圧が彼にことばを「書かせてしまう」書くことを禁じることで書くことがさらに増殖するという逆説。

短い文だが「ことば」と「言葉」というふうに使い分けている。書かれてしまった後の言葉を現象学的に還元してむき出しにすると「ことば」になるのではないか。
つねにその地点に立ち戻る。その地点は「シベリア」と呼ばれるが、「シベリア」も「沈黙」も何かの言い換えや比喩のように思える。
ものすごくベタにいえば、いかんともしがたい何か。どうしてもそこにもどってしまう場所。しかしなぜ沈黙をしめさないといけないのか。彼にもいいにくいこと、いいがたいことがあるが、彼は何かにいうことを強いられていた。それは何か?いや、その沈黙はどのような形か。その輪郭。おそらく石原はそれこそ詩だと強弁する自信はなかった気がする。「詩の定義」を読んでもそう感じる。そのようないわくいいがたい姿勢が様々な人には神秘的な像を与えていたように思える。それは心的外傷の語りが本人の思惑を超えて広がる際に生ずる本質的困難だといえるかもしれない。


ゆえに語りつがれなければならないのはつねに、それを強いた構造ではなく それが 強いられた構造である。しいられた果てを おのれにしいて行く さらに内側の構造(石原吉郎「構造」)