細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

日本国憲法は一度も生かされていない・生かすことこそが挑戦-憲法改正がこの国ではじめて本当になされるかもしれない中で

 参院選挙に敗北したのは、悲痛な思いであった。

私は野党のどこをも支持していないが、今回は憲法改正阻止がかかっているため、とにかく憲法改正阻止を掲げる政党が勝つことを願っていた。

 しかし結果は、改憲政党である自民公明維新心の勝利である。彼らと無所属の議員で、憲法改正を国会で発議するのに必要な参議院議席の3分の2である162議席を越えた。衆議院も自民公明維新などの改憲派で3分の2議席を越えているため、今後憲法改正の議論が国会で本格化することになる。簡単な流れとしては憲法審査会で、どのような憲法改正をするのかが話し合われ、条項や項目が絞り込まれ、国会全体で採決し、総議員の3分の2で発議する。発議のあとは、国民投票法に基づいて、改憲是か非かの国を二分した選挙が戦われ、憲法改正の投票が行われる。

 有効投票数の規定がないため、どれだけ投票率が低くても投票数の過半数をもって、憲法改正の是非が決まる。

 

 今回の敗北は予想されていたので、とにかく改憲発議を防ぐための野党共闘が目指された。確かに北海道・東北・沖縄などTPP原発事故、基地政策など煮え湯を飲まされ続ける地方では、野党共闘は勝利したが、都市部で自民党が勝利し、また西日本では大阪維新が躍進した。私は野党共闘は万能ではないと思ったし、しかし限定された意味はあると思ったし、実際一人区で一定の成果は果たしたが、野党の大幅な躍進があったわけでない。また維新の躍進、これは大阪府の私には大変ショックであった。

 それからずいぶん体の中の疲れが出てきた。

 そんな落ち込んでどうするといわれたが、落ち込んで仕方ない。なぜなら、もう憲法改正の議論や国民投票を避ける手段は限りなく少ないからだ。

 自分は無力であり、自分のいる陣営の無力を感じた。私たちはこの社会の中で時代遅れの少数派なのだ。

 

 

 ただし。

 私は現憲法に違和感がないわけではないが、その平和主義、人権保障の精神はやはり比類のないものだと思っている。それは私に戦争体験者でひん死の重傷を負った祖父がいたためである。私はイデオロギーではなく、自分の祖父が死んでいれば自分は生まれなかったという実感を持っている。であるから私は運命論的な意味での厭戦主義者、平和主義者であるし、憲法の平和主義について何の違和感もない。

 

 戦争が一般的に悪いか悪くないかということではなく、自分もまたサバイバーの子孫であるという体感がそれを支えている。つまり私にとっては憲法的平和主義はきれいごとではないのだ。だから多くの改憲派の主張である「アメリカに押し付けられたきれいごとの憲法」などという論難は何んとも感じない。生きてりゃいいさとしか思わないのである。生きてりゃいいさ以外のつまらない戦争正当化の小理屈など滅びてしまって構わないと思っている。

 むろんこの世界には闘争や一筋縄ではいかない対立がある。私は非常に怒りっぽい人間であるから、よく人と対立している。人と対立するのを緩和するあらゆる手段はとられるべきだと思っている。しかし銃器で頭を吹っ飛ばすのは「黙らせる」「消し去る」であり、「対立を調和させる」ことではない。

 また多くの場合、対立や違和感が丁寧にすくい取られるのが大事で、誰かが乱暴に仲良くしようと提案することは多くの国連の勧告がそうであるようにより大きな国の暴力的調停を生み出すことが多い。空爆経済制裁は多くの場合、異常に肥大した強国によるゆがんだ対応であり、丁寧な停戦合意、平和構築の取り組みが必要なことは言うまでもない。

 戦争の原因は多くの場合、格差や恣意的な支配、統制、差別、過剰な集団主義など経済的社会的なゆがみに招来している。誰かと誰かが喧嘩してではなく、ガス抜き的に血が流されその量がどんどん増えていくうちにとめどがなくなっていくものである。

 しかし日本の平和主義者や好戦主義者は「仲良くすること」と「険悪になればどこまでも殴るしかないこと」との空疎な対立を演じているように思えてならない。そんなことはないというかもしれないが、沖縄へのリアルな差別的対応をこの国の微温的な勢力も反動勢力も部分的局所的なものと捉えたがっていることからも感じるのだ。

 平和は仲良くすることではなく、戦争の抑止策はより大きな暴力ではないということがわかっていないのだ。

 平和が仲良くすることではないという場合、対立や違和感の微妙な感触を丁寧にすくい取りながら、対立が生じている人々の間に何が生じているかを知ることが大事なのである。それは具体的な経済格差や差別や恣意的な支配が生み出した構造的なひずみのようなものがあるのではないか。互いに憎しみ合っているということ以上に人がひずみを引き受け、引き裂かれていることが無力や感情のすり減り、変質を作り出しているのである。

 そういう意味で日本は「平和主義が失われている=みんなが仲良くしていない」から崩壊しているのではない。現在生じている具体的な問題を具体的に減らすということを怠っているのみならず、政府がほとんど故意に解決を諦めていることによって地滑り的に社会に非常な険悪さが漂い、思考や感性がすり減っているのである。

 そこに政府はさらなる格差の拡大によって、力の差による支配、この社会の差別性の温存という形で、自分たちの権力を発動しやすい条件を作り出そうとしている。

 そのプロジェクトの一環の中に、憲法改正もある。

 

                  *

 

 憲法改正が目指されるもう一つの条件は原発事故の未来のみえなさを復興という言葉で何重にも塗り隠したために、なぜ未来が見えないのかわからないまま、未来のみえなさだけが肥大し、それでも経済だけは動かさなければならないというおおよそ非人間的な社会の現状が、人々を閉塞と強い無力感に追いやっていることがあげられる。

 この閉塞と無力感は日本の支配体制の限界が作り出したものであるともいえるが、原子力に反省はなく、より強いものが経済のためには仕方ないといいながら、原発をアリバイ的に動かしている状況である。この仕方ないの威力が、同時に「こんなうっとおしい世界はない」という閉塞の打破への無軌道な願望につながっている。

 

 何のためかもわからないままこの社会や集団や家族を動かし続けなければならないが、そこには原発だけでなく社会保障や自然環境の安定的な維持も存在しないという未来のみえなさ。これがアメリカではトランプを、日本では野党という代案を失ったままの自民党一強状態を生み出しているのである。

 

 これに対し、日本のリベラル・左派は「守る」というメッセージを出し続けている。それは残念ながはぬるい現状肯定にしか多くの人は見ておらないようで、橋下や安倍ら保守が提案する掛け声だけの暴力的な代案に人々は乗ってしまうのである。

 そのように未来が見えない状況の中で、現状の自分たちを変えたくないが、すっきりしたいというねじれた解放願望が、より保守的な支配の温床になっているのではないかと私は思っている。

 

 では、これに対して現憲法を「守る」というメッセージは有効か。有効でないにしても、維持し続けるべきか。無論近代立憲主義・人権の保障・平和主義は失ってはならないとは思っている。

 しかしそのことは憲法を「守る」ということなのだろうか。

 むしろ日本国憲法は一度も守られたことのない憲法なのではないか。

 基地も原発もそしてこのありえないような差別、経済格差、少子高齢化は、この国で憲法の精神が空文ではなかった場合、どこかで押しとどめられていたかもしれない。

 しかしほとんど生かされていない。

 どういうことか。

 

 私たち憲法の精神を次の世界に活かすものがとるべき道があるとしたら、「この憲法が一度も生かされていない」ということ、守ることこそが新たな課題であり、その先にしか、語の本来の意味での古びた憲法を改めるという意味での改憲はないのではないかと思う。

 

 そういう意味で、憲法は新たに生かすというメッセージがいま考えられる革新的なメッセージではないかと思っているところである。

 私は欺瞞と甘さばかりの人間だ。しかし嘘は尽きたくないし、もし改憲が必要なら、本当にそう思うならそういうかもしれない。しかし、本当に今改憲は必要だろうか。これだけ高邁な憲法の文言があるのに、ほとんど生かされていないとしたら、まずこの宝の持ち腐れを生かすべきではないか。

 このほうが新たにダメなものを作り直すよりはるかにコストも安く、本当の意味でさわやかで新しいし、自主的・挑戦的だと思うのである。