細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

災害、言説空間の閉塞、それらの取扱い諸々

 私は長らく病気で活動範囲が狭く、ネットや間接媒体で調べることが出来る程度なのであるが、それでも311に起きた大地震の巨大さに震撼され続けている。大阪の人間だからたくさんは心配しなくていいと思う時もあるし数字的にはそうなのだが、さすがに3〜5月くらいまではマスクしていた。あとなにしろ買い物に困る。むろん311以前から様々な化学物質、添加物、放射性物質を摂取していたとはいえ、今回のはけた違いだ。まだ放出は爆発以降しばらくよりはマシといっても止まっていない。ふつうに運転する原子炉よりははるかに出しているだろう。溶融し落ちた核燃料の居所すら誰も教えてくれない。たぶん何年も立って象の足みたいなものが出てくるのだろうか?またそれどころか地震が止まない中をいくつかの原発は稼働している気が気ではない。
 未だチェルノブイリ事故から四半世紀しか経っておらないのだから、長期的な影響についてわかっていることはどれくらいか頼りないのであるから、体制側の情報に頼ってさえ気を付けたほうがよいといわねばならない。だから買い物は困るのである。産地が明記されているのならばその土地の線量や降下量でおおまかな見当はつかないでもない。しかし加工食品になるともうお手上げである。それらにいちいち気を使っていると反対に精神的に消耗する。厄介な仕儀になったものだ。この場合大阪に住んでいるんだから北海道だから東京だから安全or危険というのはまるで関係ない。
 死ぬかどうかは確率的というし、放射性物質は長くいくつも摂取すると恐らくは内部から体を痛めるということは言えるので、食物の大事さ、ひいては水や土の大事さ、それを奪われる恐ろしさを思うのである。これらは私たちの生命を保障する、根底的な資源であることがこんなにまざまざ感じられることはない。
 
 さて私はそういうわけで、水や食料も安全性にコストが十分かかってくると考えるし、それは今起こっている食料や燃料価格の高騰と連動する可能性がないとはいえない。輸入や輸出をちょちょっといじればいいという問題でもなさそうで手に余る。経済がこんなでは、社会保障なんて風前の灯ではないかと悲観的にもなっている。
 しかし一方で色々な悪事がばれたり、いろいろなコンテンツに無差別にさらされることで、社会への絶望よりも怒りや制度の変更に向かえばと念じるのであるが、そういうのは不定形なものであり、ある程度勘を養って、注意深く見るくらいしかできない。
 これだけできることがなさそうな気がしてくると、社会としてやるべきことははっきりしてくるように思える。それは個々人が死なないように、あるいは一生涯を送って死ねるようにするということである。放射能や社会不安や社会保障の不完全、貧困が積算すると恐ろしい量のストレスにさらされることになろう。そういう計量が難しいかもしれないがもしかしたら計量できるかもしれない種々のしんどさに目を向けることである。
 生きることは困難であるとか、大変だということは、権力や偉い人にいわれるまでもなく、ただの人は感じているわけである。
 だからただの人が、「こういうしんどさが存在する」というだけでそれがリブログされたりRTされたり、お気に入りに入ったりすることで、どんどん合意形成ができるといいなと思う。インターネットというのはもっと高度なイメージを持っていたがなんのことはない、ある種の回覧板である。しかし高齢者や子供、それから今の体制に漠然と不安を持っていてもテレビにかじりついたりしている人はその回覧板を見ることが出来ない。しかもこの回覧板は関心ベースで動いている。しかし検索すれば行政のデータも見られるわけで、記者会見なんか見るより、行政のデータを検索してる方がマシだと思う日もあった。
 しかしネットでよくみられるのがテレビや新聞のくだらなさへの罵倒で、くだらないし役立たないし煙幕にしかなっていないのであるが、しかし時々面白い番組をやっていることはある。だから罵倒してテレビや新聞でも良質なコンテンツやジャーナリズムを志向する人が押し流されるのはもったいないなと思ったりする。新聞やテレビは近代のお茶の間や街頭に適応した形態で、面白いリードで引っ張らないといけないという強迫観念で競争しあって硬直している。ある意味メディアが日本語の言論空間に引きこもっているので、それは日本の言説空間の病理と近代の病理と大衆社会問題の三重苦である。
 しかしこれは戦前戦後と全く克服しえていない我らが内なる引きこもり、内向き症状なのであるから、ひきこもりの青年を無理矢理働かすことに意味のないのと同様新鮮な空気をそれに係るものが吸うことが大事である。

 私たちの言説空間を綱紀粛正とばかりに刷新したり、あるいはネットの方が上等だなんぞという甘言には私はごまかされたくない。私たちはいま不健康な空気を放射能のごとく吸わされている。しかし放射能と違って、メディアや言説空間の状況は私たちが日々行う言語実践で是正できる。従って、ただ新しさを唱えるのではなく、間違ったものには事実で訂正し、常に視界を拘束するものを意識し続けることだろう。デマや、疑似科学対正統科学という対立を避けるには自分の存在が拘束されていないという位置に立とうと絶望的にあがくことではなく、自分の存在がこの社会に拘束され、その制度の中に書き込まれている存在でもあることを知ることだ。
 疑似科学対正統科学に対しては、ある程度「常識的に考えて」とか「相手の気持ちを想像してみる」という処方でほとんど足りる。放射能を怖がっている母親がいるとすれば、それは子供や自分の運命が破壊される恐怖に戦慄しているからであり、それはある意味で今日の現実に対応している。そして原子力もシンプルな科学的な思考で、「たかがお湯を沸かすのにあんな扱いづらいエネルギーを使う必要ないだろう」(無論莫大なエネルギーコストとその業界利益が経済にとって有用だということも説としてあり得る。しかしそこまで厄介な事態はこの災害を見ても多くの犠牲とともにあることは肝に銘じねばなるまい)「心配ないといえばいえなくもないが、何十年は見てみないと放射線がどう身体や生命環境を変えるか変えないかわからないしそれは待っていられないからまともな対策を練るしか仕方ない」となるだろうと私なら考える。不安に陥っている人を叩いてもきりがないし症状は悪化するだけだ。不安を作っているその現実自体(つまり広範囲の環境中に放射性物質がまき散らされ、事故はまだ収束しておらず原子力発電所のいくつかは稼働し続けてそれらが地震津波に耐えうるかまったくわからないこと)に目を向けるべきなのである。
 そして、すべてはいまの社会が抱えている生命への緊縛的侵襲的ありようの問題に帰着するだろうと思う。そこからなんとかするために放射能地震は今後の地球災害に備える私たちに与えられた試金石である。