細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

風雨

昨日は心身不調で横になってた。天気も雨、風つよく不安定。

 自分の母親も彼女自身の具合や機嫌の悪さに耐えるように、くるしそうな顔でテレビをみてたことがよくあった。そういうときに声をかけるのは怖かった。
昨日自分も荒れ狂う心の風雨を抱え、甘えたいとかイライラするとかそんなことが頭をしめ、頭はうまくはたらかずふらふらしてた。

昨日の朝は天才バカボンの再放送をやってた。面白かった。

今朝はすこし天気マシ。身体もいまはマシ。昨日は映画見にいけなかった。

啄木さんすんばらしき

いたく錆びしピストル出でぬ
砂山の
砂を指もて掘りてありしに


空家に入り
煙草のみたることありき
あはれただ一人居たきばかりに


打明けて語りて
何か損をせしごとく思ひて
友とわかれぬ


どんよりと
くもれる空を見てゐしに
人を殺したくなりにけるかな


いと暗き
穴に心を吸はれゆくごとく思ひて
つかれて眠る


草に臥て
おもふことなし
わが額に糞して鳥は空に遊べり


どこへ行くんだ啄木。何がしたいんだ。むしろ何をしてもダメなのに、何かしたくなっちまう。わかりすぎて泣きそうになるじゃないか。
当時これらは「へなぶり」といわれた歌風。
つまりへなへななのだ。こんなのがひたすらあるのを僕は25の頃読んで
26で啄木は死んだのかとバカな感慨にふけってた。
今でも変わらん。今のほうがある意味入ってくる。
最後のやつが好き。四コママンガみたいだけど、そこにあるのは何だ!

※ちなみに中学の時の俺のあだ名は「啄木」。あの有名な肖像写真に似てて名前も一緒で、実際はからかわれてただけだが今思うと名誉な気も。
一握の砂・悲しき玩具―石川啄木歌集 (新潮文庫)

抒情の

今朝は午前中は晴れだったが今は雲が空を覆っている。
早くシーツを洗濯しといてよかった。

抒情の前線―戦後詩十人の本質 (1970年) (新潮選書)
昼は清岡卓行「抒情の前線」を読む。
戦後詩論。吉野弘のとこと、黒田三郎のとこを読む。こういう詩風がどこへいったんだろうかとしばし思う。
なにしろ丁寧である。それを扱う清岡の言葉も態度も紳士である。どこかきちんと賭け金を置いて言葉が書かれているように思う。
詩や小説に限らず、そこに自分の身が賭けられていたというような。それは自分を血祭りにさせるものでなく、この世界のうたかたの中の多くの同胞(それは同じ国、言葉に関わらない)のひとりひとりの窓辺に、耳元に、言葉が生きて届くために、そのために賭けられた肉体だったのだ。
そんな気もする。

もはやそれ以上

      黒田三郎

もはやそれ以上何を失おうと
僕には失うものとてはなかったのだ
川に舞い落ちた一枚の木の葉のように
流れてゆくばかりであった
かつて僕は死の海を行く船上で
ぼんやり空を眺めていたことがある
熱帯の島で狂死した友人の枕辺に
じっと坐っていたことがある
今は今で
たとえ白いビルディングの窓から
インフレの町を見下ろしているにしても
そこにどんなちがった運命があることか
運命は
屋上から身を投げる少女のように
僕の頭上に
落ちてきたのである
もんどりうって
死にもしないで
一体だれが僕を起こしてくれたのか
少女よ
そのとき
あなたがささやいたのだ
失うものを
私があなたに差し上げると

解説はヤボなのだけど「私」は気がついたら空っぽで、空っぽだから失うものなんてなくて、もうどうにでもなってしまいそうだった。そのとき、あれでもそれでもなく、「失うもの」がやってきた。