細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

【年頭に思う・社会を変えるとは】どこかに、あなたの支援を待っている被差別者がいるのではないのです。 私やあなたがある場合差別者で、別の場合被差別者なのです。

 

☆私が私であることそのものが価値であり抵抗

 

原発も戦争も弱者を殺すことも、それを駆動する国家の経済も、私たちが日々私が感じたことを否定し、自他を押し殺して適応しようとする営みそのものを根源に作動しているように見えます。
私たちは私個人が生きているということを認め、それを他者へと伸ばしていくことで対抗することが必要ではないか

 

 

国に殺されること、国が他者を、最後は自分を殺すことを肯定してしまうことと
自分の感情や事情を押し殺して、より大きなもののために、冷静に行動しようとすることにはつながりがある。
私がアスペであることを認め、話すのは、自分の感情を否定しない実践、自他を殺さない行動です。

 

もちろん、「私」は不安定であり、間違いうるものです。

しかし間違いから学ぶのもまた「私」をおいて他には無いのです。

これは危うい位置に見えますが、間違いうるものを見つめ、学ぶことで、私たちは自分の心の中に対話を取り入れ、心の中に民主主義を育てるしかないのです。

間違いない「聖典」「スローガン」「正解」に頼ることは他方で安心ですが他方では全体主義を生み出します。

 

 

 

☆支援や社会運動の出発点は「私」

 

どこかに、あなたの支援を待っている被差別者がいるのではないのです。
私やあなたがある場合差別者で、別の場合被差別者なのです。
私やあなたの勉強や就労や市民活動、家庭、友人関係が社会的な差別を促進したり、その影響を隠蔽する働きを持つならそれと距離を置いたり離れるのは自由な権利です。

繰り返しますが、あなたや私の中に人間を苦しめる、意識システム、行動システムが、学習やお付き合いにより、身につけられているのです。
それが自他に矛盾や葛藤を引き起こしているのです。
外部にある搾取システムは、私たちの意識や行動のシステムと接続され、私たちを効果的に統制しているのです

国家や企業などの制度群は、私たちが生命を維持し、離合集散を繰り返し、死ぬという営みから、養分を得て、人間の上に君臨し、人間に働きかけて、自分たちを維持しようとします。
国家や企業は、私たちの生き甲斐を糧に、私やあなたを分かち、生き甲斐を破壊してるとも言えるのです。

たぶんその国家や企業を構成する最小単位が家族です。
日本は世帯単位つまり、家族を基礎として人々を管理しデータ化し租税を徴収する仕組み。

現在結婚や家父長制による家族への疑問が高まっているのは、それが国家や経済と黙契を結んでいることが明らかになりつつあるからです。
政治家や官僚が家族を一人一人の福祉以上の意味づけに活用するときは、家族を通じて人々をコントロールし、より多くのものを徴収したい意思の表れでしょう。

家族というのをより砕いてパートナーとの関係性などから育つ小さなコミュニティと考えるなら1人で生きるのは辛いと思う人の心の寄せ場になり得、親密圏と呼ばれます。

他方人々のプライベートを抱える家族は、その性質上、毎年、様々な関係や心のもつれから暴力、性犯罪、搾取的な関係が現れてくることもよく指摘されます。

イジメなども、友人関係として機能していたものが、そのメンバーシップを狭め排除の性質を持つものになったとも言えるのです。
恋愛や友情は安息であるからこそ、人のアカラサマな本音、支配性、暴力性が現れてしまいやすいとも言えます。

 

☆311以降の社会運動の混迷

 

市民運動をやっていると、それに参加するには二層あり、組合だとかかねてから活動家としてそこに居場所がある人と、私のように一般社会そのものに居場所がない人がいて、私のようなタイプには自己肯定感が低い人が多い。そして運動でもトラブルに巻き込まれ自己肯定感を失っている人もいる。

この社会内と社会から疎外された層と二者が不思議に混在していると捉えた時、今の世界での運動の困難、社会の混迷も見えるだろう。

 

さらに時間軸でいうなら四つに分けうる。

 

かねてから学生運動や組合運動に関わってきた人、セクトに関わってきた人、学校を出たが就労就学などで躓き市民運動にきた人、311以降国の政治に不満を持って駆けつけた学生や市民。
この4者がそれぞれの関心に基づいて動くので、運動は混迷を極めました。多様性があるとも言えますが議論より

議論して何とか着地点を見出すのではなく、それぞれが持つ常識、当たり前で、互いを批判するのです。また、運動が対政府に対して身構えなければならず、議論自体も忙しくてできません。
さらにここに既成政党からの介入、互いの世代観、ジェンダー観などが絡んで非常に議論は膠着しました。

 

議論が膠着した中で、疲労に一番弱いのは、就労就学に躓いた中でもメンタルヘルスや持病の苦しみを抱える層です。次に持病のある高齢者や子どもとその母親などがいます。
しかしこれらの層の苦悩は、市民運動が戦闘文化であるため、表出しないか、無視されがちです
わたしはこのことを大変憂慮します

 

なぜなら、現在の人類の半数は人口爆発状況にありますが、日本や欧米諸国は少子高齢化です。
バリアフリーと自由な人々の連帯を通じて生きづらさを減らそうと歩んでいます。
しかし、それへの抵抗として保守層からの国家主義や家父長主義、マチズモが立ちはだかっています。

 

運動は勢力が弱まっており、保守や家族主義に接続して勢力を増やそうとします。

しかし、それでは、資本主義や国家が差別的な価値観を押し付けて戦争や原発を継続しようとすることとの違いがなくなってしまいます。

本来なくてはならない批判は国家や経済が死んで良い人々、負担を押し付けて良い人々と、利益を享受し蓄積するような人々を分け隔てる価値序列を作り出していることを制度的思想的に明らかにし、より人間が解放され、自由に関係しあえるようになることです。

私たちは近代の果てにおいて、解放が進んでいるわけではありません。

もし解放が進んでいるなら、障害者は恥ずことなく街を歩き、人間が生老病死を経験する豊かさをシェアしようとするでしょう。

 

しかし実際はこうです。

障害者が国家のためと虐殺され、原発事故被害者、避難者はわずかな支援や賠償を打ち切られ、20ミリシーベルトの地域に帰すことが復興と呼ばれているのです。

このような中でオリンピックや万博といったテクノロジー、資本主義、優生思想の温床のような国家的な祭典に多額の予算がつけられようとしています。

 

 

東京電力福島第一原発事故被害についての、基本を確認しながら事故について語らねば、避難者イジメ問題の核心を見失う

自主避難者への誹謗中傷が高まっている。

かねてより避難指示区域外からの避難者には支援は災害救助法における公営住宅が無償で借りられることしかなく、生活をするに足るようなまとまった賠償金もなく、被ばくによる検診や失った仕事や学校の就労就学支援もなかった。

それなのに、全国の学校で原発避難者の子供たちは、国の厄介になってるとか、揶揄われ辛い思いをしているという。

実態は原発事故によって、広い範囲に放射性物質が広がり、事故前よりは放射性物質の曝露や影響を心配しなくてはならなくなった環境が生じたのに、日本政府は、そこに住む人々に遺漏なく汚染状況を知らせる手段を取らず、限られた地域の汚染状況だけをホームページで知らせることしかせず、それぞれの住民がこの被ばく状況で、どう過ごすか、あるいは移住するかの選択の機会を与えなかった。

そして、日本政府は汚染状況や影響範囲を小さく見積もり、20から30キロ圏しか避難指示区域にしなかった。さらに一昨年からオリンピックにかけて、汚染がなくならないまま避難指示区域を解除して、東京電力からの賠償金を打ち切り、未だ高い線量の場所が残る地域を、平気だとして、人々を帰そうとしている。

また、避難指示区域に入らない区域外からの避難者への公営住宅無償提供も打ち切る計画なのだ。

つまり、避難者いじめの原因は、原発事故にもっとも責任を感じねばならない東京電力と、原子力発電政策を官民挙げて進めた国が、原発事故被害をわずか10年以内に無くなったとしたい無茶な政策にあるのではないかと私は思うのだ。


日本政府は基準として年20mSvまでの地域を安全としている。これはそれまでの年間被ばく線量限度1mSvの20倍である。実測ではなく基準でそうしてるのである。これは国内で徹底的に議論されてできた数値ではなく、異論のある人々を押し切って作った。

誰も福島にいる人を責めるとかそんなことではない。なぜ福島第一原発事故が起きた瞬間から基準を引き上げられなければならないか、引き上げられた基準によってそれ以下の被ばくを気にしないように法的に強いられなければならないかということである。

20mSvは日本が正義と人権に基づいた法治国家として、容認できない人が出てきておかしくないことなのだ。
今後の原発事故においても20倍の限度を強いるのなら、これは原子力政策のみならず、私たちの社会の持続性に関わる問題だ。

様々な理由で受忍する方がいることは否定しないが、なぜ土地が汚染されたことを基準引き上げによって、国や東電は何事もなかったことにするのか。
これまでの年間被ばく線量限度1mSvで被害額を換算すれば東電の罪、政府の政策の恣意性は明らかになるだろう。

国は1mSvまで、被ばく線量を下げるために、除染するといいおびただしい土を剥ぎ取り植物を切った。しかし、それを完全に片付ける実際的なめどはない。また、賠償や除染にかかる費用は東電に代わり国が立て替えている。廃炉を含めれば20兆を超える。


このままでは国家財政がパンクする。

そしてこの負担を支払うのは、私たちはおろか原子力政策を推進した覚えのない子どもたちも含めた日本列島に居住する人々の電気料金や税金からである。

 

パンクしなくても、電力会社による原子力発電事業は、負債超過でできなくなるはずだ。

事実上パンクしないために、あるいは、原子力発電事業を守るために、国は20mSvまで帰還できることにし、東電の賠償をオリンピックを機に減らし、オリンピックを機に人を帰す計画なのだ。
しかしここで疑問なのは東京電力は何ら捜査もされず、刑事的な責任を取っていないのだ。
私たちが様々な負担を分担しなければならなくなるとしても

なぜ、東京電力の幹部は主に刑事的な責任を問われないのだろう、なぜ原子力メーカーは責任を問われないのだろう。海外に巨額の投資をしては失敗する彼らの責任はなぜ問われないのだろう。

私たちは敗戦後、自らの手で戦争犯罪者を裁くことなく戦後発展してしまった。

今度もまた巨大な原子力事故によって、責任を問われるはずの人々を不問にして「耐え難きを耐え」復興をするのか。しかしよく考えよ。この地震災害国日本でこれまで通りの原子力発電や巨大産業はできない。まず、私たちは責任を問うべきものを確定し、残余のものをそれぞれ担ぐべきだ。

責任を曖昧にして、私たちが重荷を我慢する復興。そんなものでは国はやっていけない。やろうとすると弱者にしわ寄せが来る。来ているではないか。
いい加減にしなければならない。
私たちの社会の公正さを取り返さねば私たちはズルズルと壊れていくだろう。

【詩作品】それは尊いことですか

頭がどんどん悪くなります

諦められなくなります

肝心なところで踏ん張れなくなります

 

だけど欲は深くなるんです

辛いです

優しくしてほしいとか

暖かくつつんでほしいとか

 

言い逃れがうまくなります

自分を誤魔化す言葉は増えます

自分を正しいと偽わる言葉が増えて

それだけで宇宙を作れそうな気さえ

します

 

歳を取れば変わるんだ

しっかりしてくるんだと

思っていました

しかし

違うんです

 

自分に正直になろうとすると

私が認めないできた

私の身もふたもない気持ちが

あふれることを

もはや抑えることができない

 

他方でツヤはなくなりますし

ぷくぷくした感じはなくなります

風邪を引いても治りにくかったり

むやみに

虚しかったり

どうしようもなくなります

 

その時どうしようもなさに

身を埋めるだけではなく

お前

自分を憐れんでるんじゃないぞという

ジサマがあらわれ

憐れんでもよかろうという

バサマがあらわれ

2人で罵りあうのです

 

その声に埋もれて

私自身の気持ちすら

さめざめ

何やら朝焼けのように

目に眩しい

 

こんな全てを

誰か聞いてくれたら

と思って

しかし

そんなことしかないのかい

と思います

 

星々はすごい勢いで

墜落して

山が崩れ

海が裂けるようです

 

ただただ

ワガママで罪深い

ヌルヌルした愛の言葉を

互いに伝えられずに

文明が自然を壊し

文明が文明をどつき回すのです

 

そんな瀕死の文明の

ただ一瞬に

私たちが生きているかもしれません

 

それは尊いことですか

 

【詩作品】ひと筋のため息

ひと筋に

モノを考えていたら

何もかも抜け落ちた

青空

お元気ですか

もうやめますか

どうしたらあたたかい気持ちになれますか

 

自転車のスタンドを立てて

手袋を脱ぐ

今日も当てもなく

ただ彷徨ってきたよって

白いため息をつきました

 

【詩作品】厳しくなる冬の雲を

誰からも離れて

まじわれない一つの鳥

それがわたし わたしの証

水の顔を蹴りあげ

空へ高く墜落する

 

自由ってどこまでも落ちていくこと

でしょう

落ちるってそんなに悪くない

でしょう

息のできない高さに行ったら帰ってくる

のですよ

 

そのとき満員電車は暗い地下トンネルを

走っていた

苦しくて苦しくて

僕は倒れそうだった

パニックしょうこうぐん?

ていうの?

冷や汗が出てくるのですね

たっていることができない

 

あの時すれ違ったあなたは

僕に顔を見せようとは

しなかった

 

空が冷たく凍る時

わたしは飛ぶことをやめ

あたたかい島へ戻ろうと

決意した

わたしには

思い出がある

わすれられない

わすれられない

というより

あなたでいっぱいになるの

 

そうね

この世界は目標をなくしたの

矢印が

どこをさしたらいいか

わからない

そうですね

 

僕は駅前から、川べりを歩いた

寂しそうな

水鳥が

くちばしに藻をからませ

すべすべした眼差しが

厳しくなる冬の雲を

見つめていた

 

たぶんもうすぐ雨が降るのかもしれない

 

【詩作品】寝床の賛美歌

疲れてねむっている

風邪って疲労のかたまりみたい

あの夢もかなわない

光と闇のまだらの模様

筒の外から雨が聞こえる

 

大人になってもさみしいんだよと

子どもの僕に教えてあげたい気分だ

布団の中がイマイチあたたまらず

暴れ出したい気分

 

君が隣にいてくれたら

隣にいなくても同じ運命の川を

滑り落ちているなら

たとえさみしくても

耐えられる

そんなことを

他人に求めてはいけない

 

明日の朝にはやむだろうか

雨が

雨がやんでも

やまなくても

ずっとさみしいままかな

さみしいってなんでしょ

この体から

溢れ出す匂い

 

一つ一つを

深くつっこみすぎない

と先生は言いました

なるほど

そうかもしれない

 

天に向かっていく

死者達の群れ

乾ききらない草のつゆ

滅びる明日にも

生きものの賛美歌が

聞こえるような気がして

発達障害の診断を受けたのは、幸せになるためには自分を知らなきゃと思ったからだ。

私はアスペルガーなので、他人の気持ちをうまく読み取れない。

少し疲れたり焦っていたりするだけでも、本当は嫌味を言われてるんじゃないか、とか、疑心暗鬼になる。

また、他の人たちは、自分のわからない、たどり着けない場所で、「人間の楽しみ」を謳歌していると思い込んで嫉妬や寂しさをためこんでいる。

 

それらを挽回しようと、いつも焦ったり、不安になって緊張したり、心をすり減らしている。

 

基礎にあるのは、疎外感のようなものだろう。

その疎外感の正体がわからなかったころはスネたりいじけたりして、死にたいとすらよく思っていた。

学生時代は、他人が気になる時期だが、その気持ちを他人にどう打ち明けて良いかわからず、悩みが溜まり、苦しんでいた。

 

仕事ができなくなり辞めても、詩を書いて暮らすとかおよそ非現実的なことばかり言っていて、さらに生活が苦しくなり精神も破綻した。

その頃付き合っていた人を苦しませ、その人は私と生きることが辛くなり私の元を去った。

自分が情けなかった。

 

それから様々な人のすすめで、心の病を治す取り組みを始めた。

しかし、私は精神病もあるかもしれないが、それよりも、人の気持ちをうまく読み取れない、それで誤解して、自分を追い詰めることがあるとわかり、それはいろいろな人間関係の難しさを感じたからだ。

そんな風にして発達障害の診断を仰いだ。

それは私が生きていきたいからである。

疎外感がなくならなくても、なるべく中良い人のあたたかさやつながりの中で生きていたい思いが強まったからだ。

災害や原発事故が私に生の自覚を促した面がある。

楽しく生きれば、災害などで私が死んだりこの国が崩壊して私が死ぬとしても、この世界に生きたという証になる。悔いがないという思いでいる。

私はだから自分と人がその違いのまま調和するという、アスペルガーがなかなか得られない感覚を知りたいんだと思う。