細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

都構想がなぜか復活!?大阪市の行政区の改革住民説明会に、松井知事が参加という不可解に他会派から抗議の声

まず行政区の再編の説明会で、住民投票で却下されたはずの都構想つまり「大阪市を廃止して、特別区にして、財政権限のかなりの部分を府に渡す」構想がまた、何食わぬ顔で出てきているのが論外なんです。

住民投票は大都市設置法に規定された住民による直接投票であり、そこで出た結果をまず尊重しないのはなぜでしょうか。

大阪において維新が強い人気があるのはわかりますが、コストと適正な手続きをかけて出た結果の意義を政治家だけでなく、市民もよく受け止めるべきではないでしょうか。私は都構想反対派ですからバイアスはありますが、あの住民投票は賛成派反対派全力で戦ったはずなんです。

そもそも当時大阪維新の会の橋下前代表が「ラストチャンス」として「市長」としての「進退」をかけて戦い、敗北して本当に市長を辞めました。全力で市長の職責を辞めるに至る戦いだったものを橋下さんが辞めたからまたやろうとは、維新の「政治的責任」がいかにいい加減で住民の努力と結果を顧みないものかわかるでしょう。

 

この問題は自民党支持か維新支持かという問題に矮小化されてはならず、住民が参加した重い法的決定をどう捉えるかという話です。


さらに、その大阪市の行政区のあり方を考える住民説明会に府知事が参加するのもおかしくて、自民党公明党などが推進する「総合区」を批判してしまうのがもはや維新の政治家としての発言にしかなってないわけです。

橋下さんもそうでしたが、松井知事も行政職のトップなんですから、公共性や市民自治をよくかんがみるべきなんじゃないでしょうか。

わけのわからない劇場型の党派的な争いに問題のレベルを下げるのはやめていただきたい。

 

さらに問題なのは、この抗議に公明党が参加していません。
以前から、維新の顔色を伺いがちな公明党なので、非常に心配です。住民説明会の性質上、行政職のトップで、府市統合に強い権限と利害関係をもつ府知事が参加するのは、他の府市統合案件にも良くない影響があるわけですから、各政党ちゃんとけじめを府知事につけさせる必要があると思います。

 

自民党大阪市議団の黒田幹事長は9日、吉村市長と面会しました。
この中で、黒田幹事長は、先月の住民説明会で、松井知事が、自民党が導入の是非を議論している「総合区」の導入では、二重行政はなくならないと発言したことを取り上げ、「松井知事の政治的発言があるなど、説明会は本来、行政がやるべきものではなく、市民にも誤解を与えた」として今後の説明会の開催の中止を求めました。
これに対し、吉村市長は応じない考えを示し、記者会見で、「制度を市民に伝えることは大事だ」と述べました。
一方、自民党と同様に「総合区」の導入を主張している公明党は、9日、断続的に自民党と協議を行いましたが、申し入れには加わりませんでした。」 http://www.nhk.or.jp/kansai-news/20160909/5519341.html

【9月8日23時59分締め切り】 「科学的有望地の提示に係る要件・基準の検討結果(地層処分技術WGとりまとめ)(案)」に対する意見を提出しました

「科学的有望地の提示に係る要件・基準の検討結果(地層処分技術WGとりまとめ)(案)」に対する意見募集について

http://search.e-gov.go.jp/servlet/Public?CLASSNAME=PCMMSTDETAIL&id=620216007&Mode=0

 

 

以下を提出しました。

 

 

****************

 

全体に関わる意見

・これ以上核廃棄物を増やさないために、原子力発電事業からの撤退を日本政府は決定すること
文部科学省経済産業省など所管官庁を始め日本政府は、福島第一原子力発電所事故が、これまでの原子力発電事業を担ってきた日本政府と専門家集団の「敗北」であると認識し、福島第一原子力発電所事故に至るあらゆる政策的失敗を総括すべき。これは政府事故調のような個別の事故の技術的検証では済まない。でなければ、再び核廃棄物処分においても同じ失敗をする恐れがある。

日本学術会議の意見を取り入れ、ドライキャスクによる暫定保管を原子力発電敷地内で行い、さらに幅広い専門家や一般市民の討議を行い、さらに広く科学的で、さらに民主的な過程で処分方法、処分地選定がなされるまで、地層処分を進めないこと。

 

 

 

◎該当箇所
50ページ
「基本的に設計や評価を踏まえた安全機能の確認が要求されており、
1096 敷地毎に影響を及ぼす可能性のある地震力の震源を特定して地震動を設定するなど、現
1097 地調査を踏まえた個別具体的な検討により設定されるため、全国一律に回避が要求され
1098 ている事象・特性は特に定められていない。従って、「回避すべき範囲」の要件・基準
1099 を設定しないことが適当と考えられる。 」

意見
・もちろん個別的な条件設定が必要なのかもしれないが、文献上列島にある最大の地震動等から見て、当該処分施設の耐震性はどの程度必要かということは、想定した方が良い。文献上当該地域にはこの程度の地震しかこないと個別に想定するとそれを越える地震が来た時に打つ手なしとなるからだ。むろん個別の地層や地盤により地震の伝わり方、効果はちがうかもしれないが、コンピュータ等でシミュレートした方がよい。


◎該当箇所
56ページ

「上記のように 20 km を越えることにより輸送における安全性が確保できなくな
1300 るわけではないため、「回避すべき範囲」の設定は行わないことが適当であると考えら
1301 れる。 」

意見
・20キロ範囲内に厳しく限定すべきである。

◎該当箇所62ページ

「直ちに処分地選定
1456 調査を実施しても地層処分が成立しない可能性が高いとは言い切れないという観点か
1457 ら「適性の低い地域」ではないという意味で「適性のある地域」と呼ぶこととする。「適
1458 性のある地域」は、地層処分にとって好ましい地質環境が存在し、長期にわたってそれ
1459 が維持されることを現時点で保証するものではないが、処分地選定調査によってそのこ
1460 とが確認できることが期待でき、処分地としての適性が認められることが期待できる地
1461 域である。 」

意見
・現時点で保証できない地域を「適性のある地域」と表現して、調査することに理解が得られるだろうか。このような設定は止めるべき。


◎該当箇所
66ページ
「1515 今後は、地層処分の実現を裏付ける科学や技術について国民理解を深めていくために、
1516 引き続き幅広い分野の専門家、研究者のサポートを得つつ、一般の方々にも基本的な考
1517 え方が伝わるような丁寧さやわかりやすさに配慮していくことが重要である」

◎意見
わかりやすさは大切であるが、リスクの矮小化などを行わないこと、また、一般市民はリスクコミュニケーションにおいて、啓蒙の対象なだけではなく、核廃棄物処理に必要な決定や税を拠出する権利主体である。単なるご意見聴取だけではなく、政府や自治体での公聴会や会議体を設置し、一般市民が政策決定に意味のある関与をできる体制を作るべきである。

「感じられる手」、中立とは何か、経験の喪失とは何か

@katoshuichi_bot

対立する意見や言い分の双方を聞いて、事により、場合に応じて、みずから考え、みずから意見を作り、みずから言い分を主張することができる。…個人において内面化された中立主義は、精神の自由ということである。「中立主義再考」『山中人閒話・夕陽妄語 1』
https://twitter.com/katoshuichi_bot/status/772460313140527105

加藤周一の言葉である。

中立というとすっかり悪い意味になってしまったが、違うのである。毎回ケースに即して自分の位置を具体的に柔軟に考え、それをしっかり覚えているということが中立で、中立はわかりにくいが実は曖昧ではない。

また林達夫のこのような言葉もある。

@HayashiTatuobot

今日ほど、真の中庸の道を歩むことのむずかしく、それにもかかわらずまたそれの必要なときもないことがわかる。中庸の道とはもちろん現状維持のことではなく、革命にさえそれはあるのだ。それは折衷でも妥協でもなく、いちばん思慮と勇気の要る道なのだ。

https://twitter.com/hayashitatuobot/status/767560404927066112

 

私が20代の頃幾つか批評を読んで感じたこと、それは、具体的なモノやコトと自分との関係を正確に測る営みであるということ、態度を決められない、わからないということの内実まで言葉にすることであった。


花田清輝のような一見難解な文章にも、彼が時代や世界と戦って負ってしまった傷の生々しさを見ないではいられなかった。花田清輝は、ライバルであった吉本のようにあからさまでなく、しかし見かけは高邁なため負った傷は深いと見ていた。深い傷はしばしば仮面をつけてあらわれる。

 

さて。

自分の知ってることではなく、取り組んでどうしてもわからないことをしっかりかければ、それは批評になる。
しかしtwitterにも新聞にも批評はない。
ただ人々は見える範囲の中で、自分の考えや裁量の否定と承認だけを積み重ねているようだ。
それは思考でも観察でもなく、反応である。


私たちは反応だけでしか考えや行いをできなくなった。政治党派にかかわらず極めて操作されやすい状態である。仔細で微妙に揺れながら、1つ1つを精一杯判断して、区切っていく不安と安寧に耐えられないのだ。

 

さいきんほんとうにたまらない気持ちになっている。反応や反応の遅れや、グループやグループからの逸脱しか、見られない。生きている1人の魂が世界と関係を切り結ぼうと震え喜び悲しみ高まるというのをみない。

私は自立した感覚やこころは、モノやコトとの一回的な具体的な関係性を積み重ねて、頼りなくても曖昧に見えても独自なカーブを切り開くものとみている。

中原中也はいった。手というものをちゃんと感じられていればそれでいいのだ。手とは、感覚し感覚されるものであり、世界を切り開き、内包し、世界に切り開かれ、世界に内包されているたった1つの、あなたの私の手である。

「『これが手だ』と、『手』という名辞を口にする前に感じてゐる手、その手が深く感じられてゐればよい。」
中原中也『芸術論覚え書き』

名前とか、言葉になる以前から、言葉になってしまった後も「手」の意味内容を支えているのは、手を深く感じていることだ。
手でなくてもいいが、私たちがこの世界に人間として生きる限り、手や、皿や、母や、友や、空や木々にも、この「深く感じている」ことがないと、生きてはいけない。
むろん世の人はそれを強く自覚はしないがそれを生きている。
しかし、モノを書く、考えることに取り憑かれた人間は、それを改めて書く中で体験し直さなくてはならない。
私たちはスマートフォンSNSの中で知らず知らず書く人になっているわけであり、知らず知らずに、当たり前の経験を経験として支える中原中也の「手」のようなものを、新たに感じ直さなくてはならなくなった。
この「手」がバーチャルな世界に回収されるか、誰も容易には触れ得ない個的な世界に至るかはそれぞれだが、政治なり経験なりを成り立たせるには「手を深く感じる」と同じ働きが必要だ。

実は私たちは政治のはるか手前で日々反応に忙殺され、中原中也のいう「手」を失っている。
この喪失は、世界を経験し私を私足らしめる実質の喪失に等しい。
むろん喪失の度合いは様々だが、当たり前のものを新たに深く感じ直す時間は単なる反応からは生まれ得ないだろう。

私たちは一人一人が、世界に対して空白やズレとして立ち現れている、立ち現れざるをえないということを思い出そう。
私があなたに対してズレであるから、私はあなたと喧嘩をしたり結びつこうと思ったりするのだ。
言語は私たちが関わりを求めてさまよい途方にくれた人類的経験の証である。
私たちは反応から生じる生き生きとした電子的、集団的砂漠から離れ、ただ1人の異物として、関係を再活性化せねばならない。
私たちはそのように深く損なわれているのですね。

 

 

民進党の後退と、改憲阻止と選挙に対する私の反省と、今後の憲法議論の展開と

民進党は、改憲阻止で野党共闘を戦い、票を獲得したわけだ。
3分の1を取れなかったから、改憲阻止は極めて困難ですと謝って今後民進党はどうあるべきか党員や選挙民に聴くべきであろう。
それをせず、改憲阻止なんか言ったかな的に代表選挙候補者がしらばくれる。
選挙民が離れてくのは無理ない。

改憲阻止が事実として可能か不可能かはあるとしても、それをむねに戦ったのだから、けじめはつけるべき。

要は野党共闘路線自体に、そこに改憲阻止という巨大な課題を載せたのが無理だったのか。しかし自民党政権が目指す憲法改正の方向性は危ういのだから、野党がそれを監視するのをやめてはならんと思うが。

私は自民党政権憲法改正の危うさに警鐘を鳴らし、政党の欺瞞は嫌だけど選挙が大事だと言ってきたので、このような事態になり、本当に悔しい。悔しいだけでなく、自らの甘さを反省しなくてはと思っています。

改憲阻止の可能性は非常に厳しい。また、野党内、民衆内でも憲法をどう考え何を大切にするか全く一枚岩ではない。
憲法の本質を損なわない、またさらに強めることのできるような議論をすることで与党を凌駕するしかないのだが、できるか否か。

 

単純な護憲と、改憲の綱引きからだけでは、選挙結果や世論の状況を理解できない気がしています。

憲法を根本から見直すことに、世論は抵抗がない。

しかし世は人権や民主主義に理解のない、どころかそれを憎むような声さえ強い。

その意味で憲法は本当に火にかけられようとしている。

 

あまりにも厳しい世界だ。

この試練に私は、私たちは耐えることが、できるのだろうか。

柱はやはり人権を守り育てる憲法議論ができるかにかかっているだろう。

 

私たちは、戦後の平和主義の本質を理解しているか、それは何だったか、それが今も議論に耐えうるものか、試されているわけです。

戦後の日本やアジアの人々が戦争の被害を受け止め、さらに人道について思考してきたことが、今後の世界にも生かせるか、71年目のリレー走者である私たちが重い課題を突きつけられているのでしょう。

 

私たちは、様々な矛盾の中で作られ、維持され、ある意味では骨抜きでさえあるような憲法を、いや憲法体制をどのように考えているのか。

いったん、この憲法や社会はガタガタに壊されて、地に堕ちるという最悪の恐れもあるかもしれません。

それでも目覚めないならこれが本当に終わりです。

ならば

地に堕ちても私たちは、未来の世代は生きていくわけで、憲法が壊されても、絶やすべきではない理想、普遍的な理想、を考える機会なのかもしれません。

これはいわば最悪の想定ですが。

 

つまりそれは、憲法に書き込まれているが未だに実現されていない価値を考えることなのかもしれません。

 

悲壮で肩の凝る文章ですいません。

いつもこのように青ざめながら考えています。

 

 

 

 

【詩作品】話すべき沈黙 沈黙すべき話

私は話すぎている

話すぎて間違えすぎている

間違えが罪深く

黙ろうとすると

息が苦しくなる

苦しくて口をパクパク

させているうちに

喋ってるみたいになってしまう

意味のないことを喋ってはいけない

という縛りがいつの間にか出来ていて

意味のあることをしゃべろうと

丁寧さを心がけるうち

私の頭の中は粗雑で

デタラメを言ってるような気がして

そのデタラメを吸い込もうと

出た言葉を吸い込もうと

言葉を吸い込もうとするが

言葉は吸い込まれず

しかし勢いを失い

他人に届くまでに

地面に落ちてしまう

 

その言葉は葉っぱだから

時間が経つと

枯れて

どこかへ吹き飛ばされる

 

だから私は間違えを恐れず

言葉をぶつけてみたらよいのか

言葉は乱反射して

穏やかな光の中で

キラキラと落ちようとする

結局何も言わないまま

伝わることを念じているだけ

なのだ

話してしまうと

私は奇怪な怪物に

なるかもしれないから

 

 

         *

 

 

(あれもこれも

言う資格はない

もう何も言うべきではない

私が火を消そうと

肩を落とすと

火が私を襲うのを

私は見るのだ)

 

自民公明両与党より激しく憲法改正を煽り、改憲反対政党を批判し始めた日本維新の会

維新が改憲に反対する政党を「憲法審に出てくる必要はない」と脅しています。ひどい話です。

自民党公明党の代わりに煽ってるわけですね。いよいよ憲法審査会、憲法改正国民投票が迫ってきます。

 

 


馬場氏、17年にも国民投票
改憲論議「開始決断を」
2016/8/28 18:56

 日本維新の会馬場伸幸幹事長は28日までに共同通信のインタビューに応じ、秋の臨時国会から衆参両院の憲法審査会で改憲論議に入れば、2017年中の国民投票が可能との認識を示した。自民党に議論開始の決断を促し、改憲に反対する政党について「憲法審に出てくる必要はない」と批判した。

 改憲勢力が3分の2を確保した先の参院選を踏まえ「国民は改憲を求めている」と強調。憲法審について「改正するために議論するのが目的だ」と指摘し、議論が進んでいない現状に関し「時間と税金の無駄」と訴えた。
http://this.kiji.is/142520321125449736?c=39546741839462401

【詩作品】なんとか秋をつかまえて

カラダの奥底から、不愉快なわななきが立ちのぼる

ふくらはぎの筋肉がしくしく泣いている

運動をしすぎたせいかと悩む

わからない

ふくらはぎがなくたびにカラダがわなないて、力が抜け、下半身がたよりないと思った

時々悲しくなり、違和感は寄せては返し、私は恋でもしているのかしらとも思ったりした

 

 

その2、3日後に風が急に冷たくなった

そういえば立て続けに東の国や北の国に台風が来ていた

 

蒸し暑い空気の中に優しい死の冷たさがしのびこんだ

 

秋が来たのかなあ

季節についてあらためて話すことはあるんだろうか

私にはあらためて話すことがない

歳を重ねるたびに

自分でできないことだらけの

世界だと思う

飲み込まれていくような哀しみに

仕方がないという言い訳と

飲み込まれてやれと言う投げやりさに

いや、抗ったほうがいいのかなあと

布団にくるまり私は

考えた

そして抗うには遅すぎる世界に

膨張する束縛の欲望に

こんな時に40過ぎて

大人みたいな顔をして

いやだなあと思った

こんなに生きていられると

思っていなかったし

生きていれば

抱きたい息苦しさがあり

大してない知恵を発表したいしょうもない顕示欲さえあり

他人に対して

尖ったやるせなさを

つきつけてやりたい

 

なんて典型的に

半端な大人になったんだろう

数千年続くかもしれない

よくわからないもっと短いのか

長いのか

人類の引き延ばされた末期を

終わっても終わっても生きて

誰かのあとには

誰かが

私のあとの誰かもまたくたばり続けるだろう

 

夏は暑かった

まだ暑いんだろうか

暑すぎると夏は現実感を失う

もう夏とは呼べないかもしれない

秋にも秋らしくない毎日に戸惑い続けるのか

しかし私のカラダは

なんとかまだ秋を捕まえられる

みたいだ